
モバイルデータ通信が5Gから6Gへの移行する上で、高周波数帯域での通信品質向上は業界全体の重要課題となっている。現在のデータ需要は毎年2倍のペースで成長しており、次世代ネットワークには現在の20~100倍の通信量に対応できる技術が求められている。
28GHz以上の高周波数帯域を使えば、大容量・低遅延通信を実現できるものの、電波は周波数が高いほど光に近い直進性が増す性質を持つため、信号の到達距離が短くなり、建物や障害物によって簡単に遮断されてしまうという深刻な課題を抱えている。
この課題を解決するため、東京を拠点とするVisbanは、ガラス基板を用いた独自のリピーター技術とAI制御によるメッシュネットワークを開発している。同社は2024年9月に東京大学協創プラットフォーム開発(東大IPC)、大日本印刷、三菱マテリアルからシリーズAラウンドの資金調達を実施し、現在は実証実験に向けた準備を進めている。
同社のCEO S.B. Cha氏は29年前、イギリスのケンブリッジ大学のスピンオフで高分子有機ELディスプレイ技術開発のCambridge Display Technology(2007年に住友化学が買収)のバイスプレジデント就任を機に来日。その後は日本で長年にわたりプロフェッショナルCEOとして複数の企業を経営してきた。
連続起業家として豊富な実績を積み重ねる中で、新型コロナをきっかけに自身の技術ビジョンを実現すべく2022年9月に日本でVisbanを起業した。現在、日本のアーリーステージのスタートアップエコシステムの利点を活かしながら、グローバル市場への展開を目指している。
データ需要爆発がもたらす技術的課題

スマートフォンの普及により、2030年までに世界のモバイルデータトラフィックは現在の10倍に達すると予測されている。しかし、現在の通信技術では物理的限界に近づいており、根本的な技術革新が急務となっている。世界的なデータ需要の急激な成長により、ワイヤレス業界は前例のない規模での技術革新を迫られている。
スマートフォン、タブレット、IoTデバイスの普及により、デバイス数は毎年急速に増加し、各デバイスが使用するデータ量も指数関数的に増大している。この結果、全世界のデータ需要は年率100%という驚異的なペースで成長を続けており、現在の通信インフラでは対応困難な規模に達している。
この需要に対応するため、ワイヤレス業界は次世代ネットワークの準備を進めているが、技術的な移行には大きなハードルが存在する。現在の5G技術は主に3GHz以下の周波数帯を使用しているが、次世代では6GHzから28GHzという大幅な周波数ジャンプが必要となる。これは業界史上最大の周波数ジャンプであり、予想される問題と予想されない問題の両方が発生している。さらに深刻なのは、業界が当初想定していた解決策の多くが、実際には予想以上に高コストであることが判明していることだ。
28GHz以上の高周波数帯域は技術的な両面性を持っている。大容量データ転送と極めて低い遅延を実現でき、ロボティクスや自動運転車など、わずかな遅延も許容されないアプリケーションには理想的だ。しかし、物理的な制約が深刻な課題となっている。高周波の信号は建物を透過することが極めて困難で、到達距離も短く、雨、木、車などによって簡単に遮断されてしまう。
雨、木、車、これらすべてが遮断や干渉を引き起こす可能性があります。実際には、多くのデッドゾーンや低速スポットが発生することになります。iPhoneが最初に導入されたときのことを思い出してください。良いカバレッジがある場所もありましたが、悪いカバレッジの場所も多くありました。Visbanの技術なしには、基本的にその状況に戻ることになります。(Cha氏)
従来からのソリューションである基地局の増設は現実的な解決策にはならない。東京を見回せば、多くの建物に基地局が設置されているが、高周波数帯域に対応するには現在の20〜40倍の基地局が必要になる。基地局自体の高額なコストに加え、設置場所の確保や工事費用、さらには美観の問題も発生する。
革新的なネットワークソリューション「V-Mesh」

authored by Murat Yucel (Gazi University) Muharrem Açıkgöz (Gazi University) via ResearchGate
現在の通信パラダイムでは、スマートフォンが基地局と直接通信する単純な構造となっている。これは28GHzの高周波ミリ波ネットワークでも技術的には可能だが、6Gの世界では、実用性に大きな問題がある。基地局から20メートル以内という極めて限定的な範囲でしか安定した接続を維持できず、25メートル離れると接続を失う可能性が高い。20メートルごとに基地局を建設することは現実的に実現不可能だ。
この課題を解決するため、Visbanは基地局とスマートフォンの間に「サブネットワーク」を構築するアプローチを開発した。このソリューションは「V-Mesh」と呼ばれ、その名の通り、基地局の周りに展開されるメッシュネットワークまたはクモの巣状のデバイス網を展開し、各ノードで信号を受信・増幅・再送信する仕組みだ。
このマルチホッピング技術により、信号がホップするたびに増幅され、段階的に到達距離を拡大できる。これにより基地局の範囲が拡張されるだけでなく、より重要な効果として「見通し線外」のデッドスポットを埋めることが可能になる。スマートフォンから基地局が見えない場所でも、複数の中継ポイントを経由することで、遮断物の周りに信号をルーティングできる。
従来の基地局増設では1平方キロメートルあたり20〜40基が必要だったが、V-Meshを使えば1基の基地局で同等のカバレッジを実現できる。これにより設備投資を90%削減しながら、通信品質を大幅に向上できる。
このV-Meshを実現する上で、Visbanが持つ最大の技術的な差別化要因は、高周波デバイスをガラス基板上に構築する独自技術にある。現在、高周波デバイスをガラス基板上に実装できる技術を持つ企業は世界でVisbanのみであり、これが同社の決定的な競争優位性となっている。従来のPCB(プリント基板)と比較して大幅なコスト削減と性能向上を実現する。基地局の実装に比べ、10分の1のコストで実現できることもVisbanの強みだ。
従来のPCB基板と比べ、ガラス基板の技術的な利点は、製造プロセス全体がより効率的だということです。したがって、これらのデバイスを作るコストは、PCBよりも大幅に低くなります。
また、ガラス基板はより軽量で安定していて、ねじれや破損に対してより耐性があります。高い周波数では、アンテナや回路は歪みに対してはるかに敏感になり、その歪みがノイズや熱に変わります。V-Meshデバイスを構築する上では、非常に安定したプラットフォームが必要なのです。(Cha氏)
同社はジャパンディスプレイと戦略的パートナーシップを構築し、設計をVisban、製造をジャパンディスプレイが担当する分業体制を確立している。ガラス基板の開発には複雑な技術的課題があったが、Visbanでは最大12の異なる層の回路、シールド、アース(接地層)などをガラス基板上の限られた層数に効率的に配置する独自の設計ルールの開発に成功した。製品化に向けたタイムラインも順調で、来月には最初のガラスデバイスが完成予定だ。
V-Meshネットワークのもう一つの核心技術は、AI を活用した動的制御システムだ。「オーケストレーター」と呼ばれるシステムが、ネットワーク全体の最適化を担っている。V-Meshでは、基地局または衛星ゲートウェイの周りに最大100台のデバイスからなるサブネットワークを形成するが、これらのデバイスは相互に直接通信するのではなく、全デバイスからステータス情報を集約し、デバイス毎に最適化された指示を送信するオーケストレーターとやり取りする。
オーケストレーターが提供する指示は高度に技術的で精密だ。各デバイスのアンテナは位相配列技術(複数のアンテナを協調制御してビームを精密制御する技術。Starlinkアンテナでも採用されている)を使用しており、狭く焦点を絞ったビームを形成する。これにより通信範囲の拡大と電力効率の向上を同時に実現している。
100台のデバイスが構成するネットワーク環境では、通信経路の組み合わせが膨大になるため、システムは異なる構成のカバレッジ性能を比較評価し、その結果を文脈データと関連付けて学習し、最適な経路を導き出す仕組みを採用している。
ただし、この革新的技術の実現には高度な技術的課題がある。ガラス基板上での高周波回路設計、AI制御アルゴリズムの最適化、量産プロセスの確立など、複数の専門分野での技術革新を同時に進める必要がある。しかし、同社はこれらの課題を段階的にクリアしており、来年の実証実験で技術的実現可能性を実証する計画だ。
現在のV-Meshネットワークは評価用に4〜6台のデバイスで構成されているが、来年の実証実験では10台規模のネットワークでの動作実証を予定している。
日本で生まれ、世界で成長する戦略

2024年9月のシリーズAラウンドでは、東京大学協創プラットフォーム(東大IPC)、大日本印刷(DNP)、三菱マテリアルから約4.5億円を調達した。東大IPCは、同社の起業支援プログラム「1stRound」への採択を通じ、Visbanが起業する前から事業計画の立案などで協力した。その他の戦略的投資家との関係は今後、段階的に発展していく見込みだ。
各投資家の関心分野は明確に異なっている。材料会社である三菱マテリアルは、Visbanのデバイスに既存材料を供給できるか、または新しい材料の開発可能性を検討している。DNPはより広範囲な視点でアプローチしており、この技術が内部事業運営の効率化に貢献できるかという観点に加え、競争優位性を持って参入できる新たな事業領域としての可能性を評価している。
今のところ戦略投資家の顔ぶれは日本企業ばかりだが、実はVisbanの主要市場は日本ではなく海外にある。日本は世界最高水準の無線・通信インフラを保有しており、地理的にもコンパクトで人口が主要都市に集中している。その結果、95%以上の家庭が光ファイバー接続にアクセスできる状況となっており、これはアメリカの30%以下という数字と大きく対照的だ。
つまり、Visbanの技術は、光ファイバー普及率が相対的に低く、急速にデータ消費が増加している地域、光ファイバー敷設よりも無線ソリューションが経済的に有利な市場がターゲットになってくる。したがって、次回の資金調達では、アメリカの投資家を中心とした戦略を検討しているようだ。
Visbanは、私がこれまで経営してきた他の企業とは異なります。これまでの企業では、私は雇われのCEOでした。経営のプロフェッショナルではあるものの創業者ではなかったので、株式の希薄化をあまり気にはしませんでした。しかしVisbanでは、創業者として、私は希薄化を大いに気にしています。そのため、価値変曲点を意識して資金調達に動いています。
私たちの価値変曲点は非常にシンプルです。既存の28GHzネットワークを使用したフィールド実証の計画があります。プライベートネットワークでですが、私たちのソリューションが機能することを世界に示します。このネットワークの範囲を拡張すれば、デッドスポットを埋めることができます。ご想像のとおり、これは私たちにとって大きな価値変曲点です。(Cha氏)
Visbanが期待する次回のラウンドは、アメリカの基準では合理的なシリーズBラウンド、2,500万米ドル程度だ。これは、日本の基準では、シリーズBラウンドとしては大きめの金額になるので、同社はおそらくアメリカでリード投資家を探し、その周りを日本とアメリカの投資家で埋めることになるだろう。
Visbanがアメリカの投資家を求める理由は、アメリカ市場での顧客獲得において優れたネットワークを持つ投資家の支援が事業を成長させる上で極めて有効だからだ。特に、この業界に精通したアメリカのコーポレートベンチャーキャピタル(CVC)を投資家として迎えることができれば、技術の市場投入が大幅に促進される。
私たちの技術は日本で開発され、日本で実証され、日本で製造されますが、おそらく少なくとも最初は、主に日本国外で販売されることになるでしょう。事業戦略上、それが我々が成長する上での近道となるからです。(Cha氏)
衛星通信との相乗効果と将来ビジョン

近年、通信業界では次世代の革新技術として「D2D(Device-to-Device)衛星通信」が注目を集めている。これは従来の専用アンテナや専用端末を必要とする衛星通信とは異なり、普段使用しているスマートフォンが衛星と直接通信できる画期的な技術だ。日本では既にKDDIが「au Starlink Direct」サービスを開始し、楽天モバイルは2026年第4四半期、NTTドコモとソフトバンクも2026年夏頃にそれぞれ同様のサービス提供を計画している。
この技術革新は、山間部や離島など地上の基地局がカバーできないエリアでも、空が見える場所であればスマートフォンでの通信が可能になることを意味する。しかし、Visbanが注目するのは、この革新的なD2D衛星通信でさえも、地上での信号配信において従来の基地局と同じ物理的制約に直面するという点だ。
NTTドコモなどが発表したD2D衛星通信サービスについて、Visbanは長期的に非常にポジティブな影響があると考えている。衛星から携帯電話への直接通信も、基地局と同じ物理的制約に直面するためだ。高周波数帯域では、信号源が衛星か基地局かに関係なく、見通し線の確保や障害物による遮断という同じ課題が発生する。
衛星が大幅に役立つ分野は、衛星は光ファイバーの代替品だということです。最終的に、D2D衛星通信サービスは非常に成功すると思います。ただし、より多くの容量を得るために衛星が非常に高い周波数に移行すると、地上の6G基地局と同じような問題が発生するので、信号を配信するための私たちのようなソリューションが必要になります。
私たちは元の信号がどこから来るかは気にしません。衛星であろうと基地局であろうと、Visbanはラスト100メートルの屋外から屋内への配信を提供します。私たちのデバイスは、衛星からであろうと基地局からであろうと、高データレートのミリ波信号を建物内に持ち込む方法を提供し、その後、Wi-Fiに変換するか、そのまま中継するかのいずれかです。(Cha氏)
このようなVisbanの技術革新により、通信インフラの可能性は大きく広がる。実用化されれば、災害時の緊急通信、山間部での遠隔医療、自動運転車のリアルタイム制御、工場でのIoT機器制御など、幅広い分野での活用が期待される。特に、従来は通信インフラ整備が困難だった地域でも、高速・低遅延の通信環境を低コストで実現できる。
Visbanは、5Gから6Gへの移行期における重要な技術的課題に対して、独自のガラス基板技術とAI制御によるメッシュネットワークという革新的なソリューションを提供している。日本の優れた技術開発環境と戦略的投資家の支援を活用しながら、グローバル市場での展開を見据えた着実な成長戦略により、次世代ワイヤレス通信インフラの実現に向けて前進している。来年の実証実験が、同社の技術が世界的に注目される重要な転換点となるだろう。
同社は現在、技術開発パートナー、製造パートナー、販売パートナーを積極的に募集している。特に、海外市場での販路拡大、量産技術の確立、アプリケーション開発分野での協業を重視している。次世代通信インフラという巨大市場での先行者利益を狙う企業にとって、Visbanとの協業は戦略的価値が高いと言えるだろう。