この記事は、仙台市経済局スタートアップ支援課との協力によりお届けします。紹介するスタートアップは、2025年10月29日から31日まで開催される SWITCH(Singapore Week of Innovation and Technology) において、ブースを出展し、自社の製品やサービスを紹介します。
東京・日本橋のカフェ「CHOOZE COFFEE(チューズコーヒー)」では、一つの静かな実験が進行中だ。訪れた客の約半数が「デカフェ(カフェインレス)」を選択するという。業界関係者によれば日本のコーヒー輸入量に占めるデカフェの割合はわずか1%未満という現状を考えれば、この数字は驚異的だ。このカフェを運営するストーリーラインは、提供方法を変えるだけで消費者の選択が劇的に変わることを証明しつつある。
同社の創業者・岩井順子氏は、デザインファームでのキャリアを経て2018年にこの会社を立ち上げた。彼女が目指すのは、単においしいデカフェコーヒーを作ることではない。東北大学と共同開発した超臨界二酸化炭素抽出技術を武器に、コーヒー生産地に新たな付加価値を生み出し、世界のコーヒー産業に革新をもたらそうとしている。その戦略は、アフリカのルワンダからスタートし、現在はタイをはじめとする東南アジアへと拡大しつつある。
デカフェ市場は世界的に急成長している。複数の市場調査会社によれば、世界のデカフェ市場は2020年代前半から中盤にかけて年平均6〜7%台の成長が続いており、健康志向の高まりとともに「妊婦や病気の人が仕方なく選ぶもの」から「誰もが自由に選べる選択肢」へと変貌を遂げている。しかし、デカフェ生産の技術と設備は先進国に集中し、コーヒー生産国はその恩恵を受けられずにいる。ストーリーラインは、この構造を根本から変えようとしている。
「世の中の仕組みをデザインする」——異色の起業家が描いた構想

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岩井氏のキャリアは、一見するとコーヒービジネスとは無縁に思える。デザインファームでの経験を持つ彼女が、なぜこの世界に飛び込んだのか。そこには、デザイン思考ならではの視点があった。
彼女が注目したのは、デカフェ市場が抱える矛盾だった。健康志向の高まりでニーズは確実に存在するのに、製品の品質は低く、価格は高い。生産地では付加価値を生み出せず、消費地では選択肢が限られている。この課題だらけの現状を探っていくと、技術、流通、販売方法のすべてに問題があることが見えてきた。
私はデザインの仕事だと思ってやっています。ものをデザインするのではなく、世の中の仕組みをデザインしていく。両方のニーズとインサイトに気付いたこと、それをどう実現するか逆算的に考えていくことが、デザイン思考だと思っています。(岩井氏)
技術については素人だった岩井氏は、理想のデカフェ技術を探し求めた結果、東北大学にたどり着いた。同大学は超臨界流体技術の研究で世界的に知られ、1990年代から超臨界二酸化炭素を用いたカフェイン抽出の研究を進めていた。しかし、多くの大学発技術がそうであるように、社会実装の壁に阻まれていた。
岩井氏は、東北大学の渡邉賢教授と出会い、技術の可能性を確信する。2018年7月、ストーリーラインは誕生した。現在、本社は東北大学内の中小機構インキュベーション施設に置かれ、正社員10名、委託やアルバイトを含めると約15名の体制で事業を展開している。2024年4月には本社登記も東京から仙台に移し、名実ともに東北発のスタートアップとなった。
創業当初から岩井氏が描いていたのは、単なるデカフェコーヒーの販売ではなく、生産地にデカフェ技術を持ち込むことで新たな価値を創出するというビジョンだった。「物資を提供するのではなく、ビジネスと高付加価値の技術を持っていくことが大事」という彼女の姿勢は、従来の途上国支援とは一線を画している。
水を使わない画期的な技術——品質と環境を両立する

ストーリーラインの競争力の源泉は、東北大学と共同開発した独自のカフェイン抽出技術にある。世界のデカフェ製造には、主に有機溶媒法、水抽出法、液体二酸化炭素法、超臨界二酸化炭素法の4種類が存在する。
有機溶媒法は最も古い方法で、ジクロロメタンなどの化学溶媒を使用する。コストは安いが、溶媒の残留リスクがあり、日本では輸入が禁止されている。水抽出法は安全性が高く、現在最も広く使われているが、カフェインとともに風味成分も失われやすい。超臨界二酸化炭素法は品質が良いとされるが、設備投資が大きく、業界関係者によれば世界でも限られた場所でしか稼働していない。
従来の超臨界二酸化炭素法でも、豆を水に浸してから処理する工程があった。これにより糖質・脂質・酸などの有効成分が溶出するとともに、豆が膨張し、乾燥時に変色や亀裂が生じる。ストーリーラインの技術は、豆と水が触れない状態でカフェインだけを選択的に抽出することで、風味成分の損失を最小限に抑え、豆の外観も通常の生豆とほぼ変わらない状態を保つことができる。
品質評価では、従来の水抽出法と比較して格段に高いスコアを獲得している。コーヒー業界では長年、「デカフェは焙煎の練習用」という認識があったが、ストーリーラインの技術で処理した豆は、焙煎師が通常の豆と同様に扱える品質を実現した。

環境面でのメリットも大きい。水の使用量が従来法よりも抑えられるだけでなく、使用する二酸化炭素も他社事業から排出されたものの再利用が可能だ。さらに、岩井氏はバイオエタノール工場などから排出されるCO₂を利用する構想を持つ。ドイツのMesserが開発した、バイオエタノール副産物から食品用の液化炭酸ガスを製造する技術と組み合わせれば、カーボンネガティブな生産プロセスも夢ではない。
現在、ストーリーラインは仙台市内の東北大学キャンパス内に小規模なラボ機を設置し、バッチあたり数キロという少量ながらサンプル生産を続けている。このラボ機で得られたデータをもとに、量産機の設計を進めており、次のフェーズでは本格的な生産実証に移行する計画だ。
同社はこの独自技術を「ZEN Craft Decaf Process(ゼン・クラフト・デカフェ・プロセス)」と名付けた。コストもかかるため、当初は高品質なスペシャルティコーヒーに特化し、付加価値の高い製品展開を目指している。
「カフェインコントロール」が変える消費者行動

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技術開発と並行して、ストーリーラインが注力してきたのが、デカフェ市場そのものの拡大だ。2021年、岩井氏は「カフェインコントロール」というコンセプトを打ち出した。これは、デカフェを「カフェインを避けるべき人のための代用品」ではなく、「誰もが自分のコンディションに合わせて選べる、ポジティブな選択肢」として再定義する試みだった。
従来のデカフェの主要顧客は、妊婦、睡眠障害を抱える人、医師からカフェイン摂取を控えるよう指導された人など、「カフェインを絶対に取れない人々」だった。彼らにとってデカフェは、味は劣るが仕方なく選ぶ代用品でしかなかった。
しかし近年、健康意識の高まりとともに新しい消費者層が現れている。それは「カフェインを飲み過ぎている人々」だ。睡眠の質や集中力の問題を抱えながらも、習慣的にコーヒーを飲み続ける人は多い。岩井氏は、こうした人々にこそデカフェの価値があると考えた。
この仮説を検証するため、2023年に東北大学ベンチャーパートナーズからのシード資金を得て、東京・日本橋に「CHOOZE COFFEE」をオープンした。店のコンセプトは明確だった。デカフェ専門店ではなく、すべてのドリンクでカフェイン入りとデカフェを同等の選択肢として提供する。サイズやホット・アイスを選ぶのと同じレベルで、カフェイン量をカスタマイズできるようにしたのだ。
結果は予想以上だった。約半数の客がデカフェを選択するという比率が、開店以来一貫して続いている。イベント出店や卸先でも同様の傾向が見られる。業界関係者によれば日本のコーヒー輸入量に占めるデカフェの割合が1%未満であることを考えると、提供方法を変えるだけでこれだけの変化が起きることは驚きだ。
興味深いのは、客の多くが初めてデカフェを意識的に選ぶという点だ。同社の店舗調査では、7割の客が「今まで意識していなかったが、カフェイン摂取について意識が高まった」と回答し、9割が「カフェインコントロールを続けたい」と答えた。中には、長年悩んでいた頭痛がカフェインの過剰摂取が原因だったと気付いた客もいる。
同社が宮城県やNTT東日本と行った共同実証実験では、カフェインコントロールの効果を定量的に検証した。被験者に1週目は1日4杯のカフェイン入りコーヒーを、2週目は朝だけカフェイン入りで午後以降は段階的にデカフェに切り替えて飲んでもらい、睡眠の質、集中力、気分の変化を記録した。結果、睡眠時間は改善し、集中力は低下せず、気分にも悪影響は見られなかった。
ストーリーラインがカフェインコントロールのコンセプトを打ち出した2021年以降、大手企業も相次いでこの市場に参入している。2023年以降、UCCやキーコーヒー、サントリーなどがカフェインレスやカフェインハーフの製品を相次いで投入。ネスレは「ゴールドブレンド カフェインハーフ」を発売し、セブン-イレブンも一部店舗で75%カットのコーヒーを提供し始めた。
私たち1店舗では市場は作れません。大手さんが参入してくれることで、市場全体が広がる。私たちは製造側を目指しているので、市場拡大は大歓迎なんです。(岩井氏)
ルワンダからタイへ——グローバル戦略の転換

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創業当初、ストーリーラインのグローバル戦略の中心にあったのはアフリカのルワンダだった。人口約1,300万人の小国ルワンダは、1994年の大虐殺から奇跡的な復興を遂げ、「アフリカのシンガポール」を目指す発展戦略で知られる。ICTインフラの整備や汚職の撲滅、ビジネス環境の改善などで、サブサハラ・アフリカ地域の優等生として注目を集めてきた。
コーヒーは同国の主要輸出品目で、高品質なアラビカ種の栽培に適した高地の気候を活かし、スペシャルティコーヒーの生産に力を入れている。国家戦略として付加価値化を推進するルワンダにとって、デカフェ技術は理想的なソリューションに見えた。
岩井氏は経済産業省のJ-Partnership事業の補助金を得て、ルワンダでフィジビリティスタディや現地実験を実施した。反応は上々だった。国家農業輸出振興庁(NAEB)のCEOとの公式会議では、「国の政策と完全に合致している」という評価を得た。しかし、プロジェクトは思うように進まなかった。
反応は良かったんですが、プロジェクトの進行が遅いんです。お金を出してくれる人がいないんですよ。政府の支援にも限界がありますし、カウンターパートの事業者も小規模なローカル企業が多くて、大規模投資に踏み切れるだけの財務基盤がない。「いいね、早く来てよ」という反応はいただくんですが、なかなか具体的には進まない状況が続きました。(岩井氏)
一方で、東南アジアからのアプローチが増え始めた。特にタイからは複数の事業者が強い関心を示した。岩井氏自身、当初はアジアのコーヒー市場に詳しくなかったが、何度も現地を訪れるうちに、その潜在力に気付いていった。
東南アジアには、ルワンダにはない大きなアドバンテージがあった。急速に成長する消費市場だ。世界銀行のデータによれば、東南アジアの中間所得層は2020年から2030年にかけて倍増すると予測され、それに伴いコーヒー消費も急拡大している。しかし、アジアにはデカフェ工場がほとんど存在せず、市場はほぼ未開拓の状態だった。
事業者さんたちは健康志向の高まりを予測していて、「早くデカフェをやりたいけど、アジアに工場がない」という状況なんです。そういう熱量を感じました。(岩井氏)

Photo credit: Mae Fah Luang Foundation
現在、最も進んでいるのがタイの国営ブランド「Doi Tung(ドイトゥン)」とのプロジェクトだ。Doi Tungは、現国王ラーマ10世の祖母にあたるシーナカリン王太后妃殿下が1988年に設立したMae Fah Luang Foundation(メイファーラン財団)が運営する。
このプロジェクトの背景には、ゴールデントライアングルと呼ばれる地域の歴史がある。タイ、ミャンマー、ラオスの国境が交わるこの地域は、かつて世界最大のアヘン生産地だった。王太后妃は、山岳少数民族にコーヒー栽培を教え、森林保護と経済的自立を両立させる「ロイヤルプロジェクト」を開始した。現在、Doi Tungブランドのコーヒーは国際的な評価を得ている。
Doi TungのCEOと何度も会って、品質向上にアドバイスをもらっています。将来的には一緒にタイにデカフェ工場を持っていきたい。(岩井氏)
タイ以外にも展開の可能性は広がる。インドネシアは世界第4位のコーヒー生産国で、年間約67万トンを生産する。ベトナムは世界第2位で主にロブスタ種の生産国だが、アラビカ種の栽培も増えている。中国の雲南省も新興のコーヒー生産地として急成長中だ。
世界中で、ようやくデカフェの需要があるという認識が広がってきました。本当にここ数年の変化です。(岩井氏)
工場を生産地に——経済合理性と社会貢献の融合

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ストーリーラインの究極のビジョンは、コーヒー生産地にデカフェ工場を建設し、現地で付加価値を生み出すエコシステムを構築することだ。これは理想論ではなく、極めて合理的な経済性を持つ戦略だ。
業界関係者によれば、現在、外部から受託するデカフェ工場は世界にわずか3カ所——カナダ、メキシコ、ドイツ——しか存在しない。つまり、世界中のデカフェが、この3カ所のいずれかに輸送されている。(有機溶媒法を除く)この構造は、信じがたいほど非効率なサプライチェーンを生み出している。
岩井氏が聞いた実例は象徴的だ。日本の事業者がエチオピアのコーヒーをデカフェにしたいと考えた。しかしエチオピアは生産国同士での直接輸出を禁じているため、メキシコに直接送ることができない。結果、エチオピアから日本に輸入し、日本からメキシコに送り、処理後に再び日本に戻すという、地球を半周するような非効率なルートを辿ることになった。
フードマイレージの観点からも問題は大きい。ストーリーラインの試算によれば、アフリカからカナダ経由で日本に運送する場合と、アフリカでカフェイン除去処理して直接日本に運送する場合では、後者の方がCO₂排出量が約半分になる。デカフェのために豆が不必要に長距離を移動する現状は、環境負荷の面でも持続可能ではない。
生産地に工場があれば、コーヒーの副産物も有効活用できる。コーヒーチェリーの果実部分、通常は廃棄される「カスカラ」には、抗酸化作用の強いクロロゲン酸が豊富に含まれている。花王がヘルシアコーヒーなどで商品化しているこの成分を、現地で抽出してサプリメントやドリンクとして販売できれば、農家にとって新たな収入源となる。

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CC BY-SA 4.0
ストーリーラインは実際に、クロロゲン酸の抽出実験に成功している。コーヒー豆1トンから約500キロのカスカラが発生すると言われ、これまで単なる廃棄物だったものが、付加価値の高い製品に変わる可能性がある。
しかし、実現には大きな課題もある。当初、ストーリーラインは自社で工場を建設し、豆の生産・販売で収益を上げるビジネスモデルを想定していた。デカフェ豆を大量に市場に供給するには、相応の規模の生産設備が必要になる。しかし、最大のハードルは資金だ。
巨大工場を作ることが、本当に自分たちがやりたかったことだったのか、というジレンマがずっとありました。IPOを目指すなら、大量の豆をさばける巨大な工場が必要になる。でも、私たちが本当にやりたかったのは、いろんな生産地に技術を持っていくことだったんです。(岩井氏)
例えば、ドイツ・ブレーメンを拠点とするCoffein Compagnie(コフェイン・カンパニー)も、同様のモデルで展開してきた。1990年代にコロンビアのDescafecolをジョイントベンチャーとして設立し、工場の設計と技術を提供。現在はDescafecolは独立したコロンビア企業として運営されているが、技術とノウハウの提供というモデルは、ストーリーラインが目指す方向性と重なる。
このアプローチには、もう一つのメリットがある。日本の高圧ガス保安法は世界で最も厳格とされ、超臨界二酸化炭素装置の運用コストを押し上げている。例えば、ステンレス製圧力容器の壁厚は、工学的に必要な厚さの約3倍が要求される。法定点検のために年に一度、1カ月以上ラインを停止しなければならない。
ルワンダで調査したとき、そもそも高圧ガス規制自体がないと言われました。もし工場を作るなら、政府と一緒に適切な規制を考えましょう、という話になりました。結果として、日本よりもコスト効率の良い運用が可能になる可能性があります。(岩井氏)
カフェインを可視化する——NTT東日本との実証実験

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国内では、ストーリーラインは興味深い実証実験を進めている。NTT東日本との協業による「Wellness Lounge」プロジェクトだ。
このプロジェクトは、日常的な健康管理をテーマにしている。来店客は端末の前で15秒ほど話すだけで、その日のコンディションを診断される。AIが声のトーンや表情から心身の状態を分析し、「今日はイエロー」といった形で状態を評価する。それに基づいて、最適なカフェイン量のコーヒーが推奨される仕組みだ。
空間デザインにも工夫が凝らされている。施設は「KAGEROU(かげろう)」「HINATA(ひなた)」「KOKAGE(こかげ)」の3つのエリアで構成される。KAGEROUは感情分析を行い、その結果に基づいて最適なカフェイン量のコーヒーや食事を提供するカフェスペースだ。
HINATAは「覚醒」をテーマにしたコミュニケーションスペースで、明るい照明と活動的な雰囲気で交感神経を刺激し、集中力の維持や生産性向上をサポートする。KOKAGEは落ち着いた照明とリラックスできる環境で副交感神経を優位にするリラクゼーションエリアだ。訪れる人は、自分のコンディションに合わせて過ごす場所を選べる。
最近、「あなたの何かを診断します」という計測サービスが増えていますが、たいていは、測るだけで終わってしまう。NTT東日本さんは、測定結果に対して具体的な提案をしたいと考えていたようです。(岩井氏)
ストーリーラインにとって、このプロジェクトの最大の意義は「カフェインの定量化」にある。カフェインの含有量は、豆の品種、焙煎度、抽出方法によって大きく変わる。エスプレッソは1杯あたり約60〜80ミリグラム、ドリップコーヒーは約80〜120ミリグラム、缶コーヒーは約100〜150ミリグラムと幅がある。多くの人は、自分が1日にどれだけカフェインを摂取しているか把握していない。

ストーリーラインは、提供するすべてのコーヒーについて、一杯あたりのカフェイン含有量を分析し、データ化した。メニューにはカフェインレベルが1から5まで表示され、端末の診断結果に基づいて「今日はレベル4がおすすめ」といった提案がなされる。
岩井氏は、この技術を将来的には自動販売機に展開したいと考えている。例えば、午後に重要な会議を控えているなら高めのカフェイン、夕方以降で就寝時間が近いなら低めのカフェイン、といった形で、スケジュールに応じた最適化が可能になる。
自分のデータをかざすと、体質や今日の体調、スケジュールも把握した上で、その時に最適なカフェイン量のコーヒーが自動的に出てくる。そういうことをやりたいんです。(岩井氏)
健康管理のデジタル化が進む中、カフェイン摂取の最適化は新しいフロンティアとなる可能性がある。ウェアラブルデバイスが睡眠や運動を記録するように、カフェイン摂取も可視化され、管理される時代が来るかもしれない。
未来への挑戦——技術と市場の狭間で

順調に見えるストーリーラインの事業展開だが、岩井氏は資金調達の難しさを率直に語る。特に、「ディープテックなのか、リテールなのか」という投資家側の捉え方の違いが、評価を複雑にしている。
日本のベンチャーキャピタルは近年、専門分野ごとに細分化が進んでいる。ディープテック特化型ファンドは、宇宙、量子コンピュータ、創薬、素材科学といった「真に革新的な技術」に投資する。彼らから見ると、超臨界二酸化炭素は既存技術の改良であり、コーヒーは嗜好品市場に過ぎない。
一方、消費財やリテールに投資するVCは、技術開発に長期の時間と資金を要するビジネスモデルに慎重だ。「デカフェは売れないでしょう。今までだって売れてきていない」という反応も少なくなかったという。
しかし、こうした見方は市場の変化を見逃している可能性がある。ノンアルコールビール市場がその好例だ。かつて「ビールもどき」として敬遠されていたノンアルコールビールは、長年、市場の片隅に追いやられていた。しかし状況は劇的に変わった。
サントリーの「オールフリー」が2010年に発売されて以降、健康志向の高まりと技術革新が相まって市場は急拡大。2023年には国内のノンアルコールビール市場は約600億円規模に達し、2010年代初頭と比較して約3倍に成長した。味の改良に成功した製品が続々と登場し、「我慢して飲むもの」から「積極的に選ぶもの」へとイメージが転換した。
デカフェコーヒー市場も、同様の転換点にあると思います。ノンアルビールが『売れない』と言われていた時代と、今のデカフェの状況は似ています。提供方法を変え、品質を上げ、大手企業が参入すれば、市場は必ず動くはずです。(岩井氏)
もう一つの大きな課題は、CTOの不在だ。同社の経営陣は岩井氏を含めビジネス側の人材で構成されている。同社の超臨界二酸化炭素抽出技術を生み出した東北大学の渡邉賢教授は技術顧問として深く関与しているが常勤ではない。投資検討の際、「誰がこの技術の責任を持っているのか」という質問は必ず出る。
超臨界流体技術に精通した人材は極めて限られている。東北大学、名古屋大学、熊本大学などが研究の中心だが、卒業生の多くは大手企業に就職し、高給を得ている。スタートアップへの転身は容易ではない。岩井氏によれば、興味を持ってくれる人は多いものの、まだチームに引き込むまでには至っていないという。
それでも、市場環境は確実に変化している。UCCは「カフェインマネジメント」、ネスレは「ゴールドブレンド カフェインハーフ」といったコンセプトを打ち出し、大手各社がカフェインレス市場に本格参入している。「カフェインコントロール」は、日本コーヒー協会の2024年重大ニュースに選ばれた。市場の機が熟しつつあることは明らかだ。

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資金調達やCTO採用といった課題を抱えながらも、岩井氏の目線は常にグローバルだ。10月末にはシンガポールで開催される東南アジア最大級のスタートアップイベント「SWITCH」に、仙台市のブースから3年連続で出展する。
アジアでのネットワークが広がってきました。タイだけでなく、インドネシアやベトナム、中国の雲南省など、まだ訪れていない場所もたくさんあります。それぞれの国の需要を知る必要があります。(岩井氏)
東南アジアには、華僑ネットワークという強力な経済圏が存在する。タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、シンガポールなど、各国の経済を牽引するのは華僑系財閥だ。一つの国で成功すれば、ネットワークを通じて他国への展開が加速する可能性がある。岩井氏もこの可能性を認識している。
ルワンダでのプロジェクトも、決して諦めたわけではない。
ルワンダでなければいけないとは思っていませんが、きっかけがルワンダだったことに意味があります。ニーズは確実にあります。(岩井氏)
アフリカ大陸のコーヒー生産国は、エチオピア、ケニア、タンザニア、ウガンダなど多数存在し、いずれも高品質なアラビカ種の産地だ。インフラ整備が進み、投資環境が改善すれば、将来的な展開の可能性は十分にある。
中南米も視野に入る。コロンビア、グアテマラ、コスタリカ、パナマなど、スペシャルティコーヒーの名産地は多い。特にパナマのゲイシャ種は1ポンド(450グラム)数百米ドルで取引される超高級品として知られ、デカフェの付加価値化には理想的な素材だ。
岩井氏が描くエコシステムは、単なるビジネスモデルを超えている。世界各地でコーヒー生産者の平均年齢は50〜60代と高齢化が進んでいる。国際コーヒー機関(ICO)などによれば、アフリカのコーヒー農家の平均年齢は60歳、コロンビアでは56歳、ウガンダでは55歳に達していて、多くの産地で後継者不足が深刻化している。また、気候変動による栽培適地の変化、国際価格の変動、生活コストの上昇——生産者を取り巻く環境は厳しさを増している。
デカフェ技術がもたらす付加価値は、こうした構造的問題への一つの解となる可能性がある。同じ量の豆から、より高い収入を得られれば、若い世代がコーヒー栽培に希望を見出すかもしれない。健康保険や教育への投資も可能になる。
ストーリーラインは過去に、売上の一部をルワンダの生産者の健康保険に充てるプロジェクトを実施したことがある。
ルワンダでは家族単位の健康保険が年間数百円程度で加入できるんです。でも、投資という概念に馴染みの薄い農家の方々は、なかなか加入されていない。長く働いてもらうためにも、そういった小さな支援が生産者の生活の質を大きく改善できると考えています。(岩井氏)
デザイナーとしてのバックグラウンドを持つ岩井氏にとって、ストーリーラインのビジネスは「世の中の仕組みをデザインする」という壮大なプロジェクトだ。技術開発、市場創造、そして生産地への価値還元——これらすべてを統合したエコシステムの構築を目指している。
デカフェという商品には可能性を感じていました。でも、品質が低い、価格が高い、生産地に利益が還元されないという課題だらけの現状があった。一方で、健康志向の高まりから消費者のニーズは確実に存在している。この現状を変えて、技術、流通、販売方法を改善すれば、市場はもっと成長するし、結果的に生産者にも貢献できると考えたんです。(岩井氏)
彼女の構想は、単なる技術の社会実装ではない。消費者行動の変容、サプライチェーンの再構築、環境負荷の削減、生産地の経済発展——これらすべてが有機的に結びついた、新しいコーヒー産業のエコシステムを創造しようとしている。

世界のデカフェ市場規模については、調査会社によって推計に幅がある。Grand View Researchによれば、2024年の市場規模は約24億米ドルで、2030年までに約33億米ドルに達すると予測されている。一方、Mordor Intelligenceは2025年時点で約31億米ドル、2030年までに約43億米ドルに成長すると見込んでいる。Market Research Futureの分析では、より広範な市場定義に基づき、2023年時点で約195億米ドル、2032年までに約265億米ドルに成長するとしている。
いずれの推計も、デカフェ市場が今後数年間で大幅に拡大することを示している。この成長市場において、生産地に技術を届けるというストーリーラインのアプローチは、まだ誰も試みていない独自のポジションを築く可能性を秘めている。
現在、世界中のデカフェ処理を担っているのは、主にカナダ、メキシコ、ドイツのわずか3カ所の工場です。この集中が、コーヒー豆が世界中を無駄に移動するという非効率なサプライチェーンを生んでいる。もし生産地に技術があれば、この構造は劇的に変わります。それが私たちの目指す世界です。(岩井氏)
東北大学の研究室から始まったクラフトデカフェの挑戦は、今やアジア全域、そして世界のコーヒー産業を変革する可能性を秘めたムーブメントへと成長しつつある。技術、市場、そして社会貢献——この三つを融合させた岩井氏のビジョンは、ディープテックスタートアップの新しいモデルを示している。
量産実証機の設置場所は仙台市内を想定している。設計も大筋で固まり、あとは資金次第という状況だ。デカフェ市場の急成長と大手企業の参入という追い風を受け、ストーリーラインは次のフェーズへの移行を準備している。
いろんな産地で、この価値を生み出していきたい。それがストーリーラインのビジョンです。(岩井氏)
コーヒー一杯に込められた技術と思想が、やがて世界のコーヒー産業に新たな物語を紡ぐ日は、そう遠くないかもしれない。
