イオントラップ方式で日本初、量子コンピュータ実用化に挑むQubitcore


沖縄科学技術大学院大学(OIST)からスピンオフしたQubitcoreは2025年1月、プレシード調達を完了した。量子コンピュータの基盤技術であるイオントラップ技術と微小光共振器を組み合わせることで、光接続分散型量子計算システムの実現を目指すスタートアップとして、2024年7月に創業を果たした同社は、イオントラップ方式で国内初の商用稼働を目指している。

代表取締役CEOの綿貫竜太氏は、横浜国立大学で物性物理学の博士号を取得後、東京大学での特任研究員、横浜国立大学助教を経て、研究で得た特許技術の事業化に取り組んできた。また親族から介護・薬局事業を営む会社を継承し、再建・売却をした実績を持つ。

量子コンピュータ分野で「ゴールドラッシュ」が起きる中、なぜ日本発のイオントラップ方式に賭けるのか、そしてQubitcoreが描く未来について、綿貫氏に話を聞いた。

偶然の出会いから生まれた量子コンピュータ事業——研究者から起業家への転身

代表取締役CEOの綿貫竜太氏

綿貫氏の量子コンピュータ分野への参入は、決して計画的なものではなかった。もともと横浜国立大学で教員(助教)として極低温の物性物理学の研究・教育活動していた綿貫氏は、東京大学と共同での超高速精密磁気抵抗測定の研究中に、新しい位相検波(復調)による信号分離技術を開発し、特許を取得していた。この技術は、Wi-Fiや携帯電話、MRI(磁気共鳴画像法)、自動運転で使われるミリ波レーダーなど、「波を使うところであれば、ほとんどのところで使える技術(綿貫氏)」だったという。

綿貫氏は当初、MRIの60倍以上の超高速撮影を目指してメドテック分野で起業したが、技術検証の結果「MRIには適用できない」ことが判明した。信号分離の技術的困難さと装置の安全性制約により、実用レベルでの性能向上は困難と判断し、MRI分野での事業化を断念した。その後、綿貫氏は事業のピボットを模索したが、CTOとの事業方針をめぐる認識の相違により、設立からわずか2か月半で会社の解散を決断した。

会社の解散を決めた直後、採択されていた横浜市のYOXOのアクセラレータプログラムでメインメンターを務めていた(そして、のちに投資を受けることになる)ライフタイム・ベンチャーズの木村亮介氏に解散の報告を行ったところ、木村氏から転機となる提案を受けた。

木村さんが「分かりました。じゃあ、次にやることが決まってないなら、ライフタイム・ベンチャーズがOIST連携ファンドをやっているので、OISTの技術を基に一緒に会社をつくりませんか?」と言ってくれました。ここで普通だったら、もうすべてが終わりになりそうなところですが、木村さんが食いついてきたのです。

私はもともと物理学者だし、分野外ではあったけれども量子コンピュータにも昔から興味があった。また、この分野は、これから盛り上がる気運もありました。根本先生(OIST量子技術センター長の根本香絵教授)がセンターを作ったという話も聞いていたので、量子系の研究室からシーズを探してみます』ということになりました。(綿貫氏)

綿貫氏は、木村氏からの提案を受け、OISTの高橋優樹准教授のイオントラップ研究に注目することになる。イオントラップ方式は、真空中に複数のイオンを電場でトラップし、レーザーで個々のイオンをアドレスして操作することで、極めて高い制御精度を実現できる点が特徴だ。他の方式と比べてエラー率の低い量子計算が行える点で優れており、世界的に最も実用化研究が進んでいる方式の一つである。

アメリカでは、IonQがSPAC上場を果たし、HoneywellからスピンアウトしたQuantinuumが開発実績を積み重ねるなど、先行事例も存在していた。一方日本では「イオントラップに関するエッジの効いた先端基礎研究をやっていて、優秀な研究者がいるのにもかかわらず、量子コンピュータとして社会実装するという動きが見られなかったため、事業化の余地が大きいと判断した。

1年半をかけた説得——高橋准教授をCSOに迎えるまで

高橋優樹准教授
Photo credit: OIST

2023年6月、綿貫氏らは、OIST Innovationを通じて高橋優樹准教授との面談を実現した。周辺からは当初、「高橋准教授は、スタートアップに多分興味ないですよ。生粋の物理学者、研究者なので」と言われていたが、綿貫氏らは粘り強く説得した。

「業界全体を盛り上げるのに、産業界を巻き込んだ方がいいんですよね」とか「科研費(文部科学省からの科学研究費助成)や科学技術振興機構(JST)からの資金に加え、(VCからの)リスクマネーを入れることによって、いろんな人を呼び込めるようになり、アカデミアへのフィードバックもありますよ」など説得を続けた結果、徐々に前向きになってくれたという。

高橋氏のCxOとしての参画は、OISTにとって前例のない決断となった。公職との利益相反の可能性を考慮して慎重な検討が必要だったが、最終的に高橋氏自身が深く関わる意思を固め、約1年半の検討期間を経て2024年10月にCSO(Chief Science Officer)として正式参画が決定した。

OISTにとっては初の事例だったんです。OISTのPI(Principal Investigator)、つまり、研究室を主催している研究者が、会社のコア人材として参画するということが、これまで行われてこなかったし、それも許可してこなかった。でも、高橋先生の人的ネットワークも研究ネットワークは他の人物では代えがたいし、彼の知見なしには事業が動かなかったんです。(綿貫氏)

高橋氏は、JSTの「ムーンショット型研究開発事業」における目標6「2050年までに、経済・産業・安全保障を飛躍的に発展させる誤り耐性型汎用量子コンピュータの実現」において、イオントラップ方式による量子コンピュータ開発を主導するプロジェクトマネージャーを務めている。

また、高橋氏は東京大学で光量子コンピュータの研究で博士号を取得した後、イギリスのサセックス大学でイオントラップ、そして東京大学で超伝導量子コンピュータの研究を経験しており、「世界的に見ても、三方式を経験している極めて珍しい研究者(綿貫氏)」なのだそうだ。

量子コンピュータの開発には、基礎物理の研究に根ざした深い知見が欠かせません。また、事業化には基礎研究と実装開発が切っても切れない表裏一体の関係があります。これは世界の量子コンピュータ系スタートアップを見ても共通していることです。そのため、量子コンピュータのスタートアップの成功には、高橋先生のような研究者が深く関わる体制が不可欠であるとOISTに説明し、かなりの時間を要しましたが、最終的には好意的に受け止められたので、この体制で進めることができました。(綿貫氏)

この1年半という長期間にわたる調整と信頼構築プロセスは、単なる人材獲得以上の意味を持っていた。OISTという世界トップレベルの研究機関での前例作りであり、日本の量子コンピュータ産業における産学連携の新しいモデルケースとなったのだ。

イオントラップ方式の圧倒的優位性

イオントラップに捕獲されたカルシウムイオン(隣接イオン間距離:約10 μm)
Photo credit: Experimental Quantum Information Physics Unit, OIST 

Qubitcoreが採用するイオントラップ方式には、他の方式にはない独特の優位性がある。綿貫氏はその特徴について、物理学的な原理から詳しく説明する。

イオントラップとは、真空中に一個一個の原子を持ってきて、レーザーでイオン化させるんです。つまり電荷を持った状態にして、それを電気の力、つまり電場で宙に浮かせて捕らえているんです。ですので、周りと完全に隔絶された環境を実現できて、しかも電気の力で捕らえているので、トラップする力がすごく強いんです。外部からの影響を受けにくく、量子状態を安定して保つことができる。これが最大の特徴なんですよ。(綿貫氏)

この構造により、イオントラップの量子ビットは長いコヒーレンス時間と忠実度の高い操作と測定で注目されており、「エラー率が驚異的に抑えられる」という大きなメリットがある。超伝導量子ビットは基板の上に金属で描かれた電気回路で作られているため、外部との接触が避けられないのに対し、イオントラップでは量子ビットをほぼ完全に外界から隔絶された環境を実現できる点で圧倒的に有利だと綿貫氏は強調する。

シュレーディンガーの猫という有名な思考実験がありますね。箱の中の猫は、中を開いて見るまでは、生きているか死んでいるか分からない「重ね合わせ状態」にある。しかし見た瞬間に、生きているか死んでいるかが確定してしまう。

量子コンピュータでも同じで、外から刺激があったり観測したりすると量子状態が壊れてしまいます。その中で、量子状態を長時間、しかも良い状態で維持できるというのが、イオントラップの最大のメリットの一つです。(綿貫氏)

技術的な成熟度も、イオントラップ方式の大きな強みだ。イオントラップの研究自体は約70年の歴史があり、それを量子コンピュータに応用しようという研究も、20〜30年の歴史がある。基礎物理はほぼ解明されており、大きな未知の部分がないため、残された課題はエンジニアリング(実装技術)に集中している、という状況にある。

これは比較的新しい他の方式——例えば、シリコンスピン(シリコン半導体中の電子スピン)や中性原子を量子ビットとして利用する方法——が、物理学的にわかっていないことがあるのと対照的だ。そういう部分が、イオントラップには少ない。(綿貫氏)

競合環境を見ると、量子コンピュータ市場では、アメリカのIonQやQuantinuumが先行して商用化を進めている状況だ。IonQは2021年にニューヨーク証券取引所にSPAC上場し、Quantinuumは非上場だが親会社Honeywellの潤沢な資金を背景に事業を展開している。

しかし、中国を除く日本やアジア・オセアニア地域では、イオントラップ方式の商用化に取り組む企業は存在しなかった。「少なくとも日本においては完全空白だった」と綿貫氏は市場状況を分析する。

第一に、IonQやQuantinuumなど欧米で、イオントラップ方式で商用化を実現している先行プレーヤーの事例が既にあり、市場そのものをゼロイチで立ち上げるリスクがほぼなかったこと。第二に、高橋先生が持つ技術が他の取り組みに比べて優位性が際立っており、実現に向けた見通しも明るかったこと。第三に、中国を除く日本およびアジア太平洋地域での活動が完全に存在しないこと。この3つの基準をすべて満たしていることが、事業化への強い根拠となりました。(綿貫氏) 

この状況は、Qubitcoreにとって大きな事業機会となっている。

分散型アーキテクチャで挑む2030年商用化

Qubitcoreが構想する分散型イオントラップ量子コンピュータの構成イメージ(左)と、実物モックアップ(右、OIST内で撮影)。
光ファイバー接続によるイオントラップ間の量子もつれネットワークを視覚化したコンセプトモデル。
Photo credit: Qubitcore

Qubitcoreの独自技術は、従来のイオントラップの課題だったスケーラビリティを解決する分散型アーキテクチャにある。イオントラップ技術と光共振器を組み合わせることで、分散型量子計算システムの実現を目指している。

具体的には、イオントラップモジュールを光共振器と統合し、フォトニックリンクで相互接続する分散型量子計算アーキテクチャを採用している。

従来のイオントラップモジュールは単体で使われており、これが拡張性に向けた弱点とされてきました。当社では、2029年には、フォトニックリンク、光量子接続を採用します。イオントラップモジュール(今は単体で使われている)複数を光ファイバーで接続し、光スイッチを介して、どんどんスケールできるようにしていきます。(綿貫氏)

この分散型アプローチにより、1,000量子ビット以上のスケールを視野に入れる設計思想が可能になり、従来のイオントラップ方式では困難だった大規模システムの構築への道筋が見えてきた。

Qubitcoreは、商用化に向けた段階的なロードマップを策定している。2028年に誤り訂正の検証・研究用テストベッドとして第一世代機を公開し、2029年には1,000量子ビット超のシステムへの拡張可能性を示せる第2世代機を公開する計画だ。

これは結構野心的な目標なんです。ただ単純に動かすだけなら2028年にできてしまうんのですが、それで商用稼働させるというのでは工夫がなさすぎる。我々は後発ですから、さらに2年かけて(2030年に)圧倒的に明るい未来を見せるマシンを商用稼働させたいと思っています。(綿貫氏)

商用稼働するマシンの最初の顧客はおそらく、公的研究機関になる見込みだ。

現在、つくばにある産業技術総合研究所(AIST)に新設された量子・AI融合技術ビジネス開発グローバル研究センター(G-QuAT)との連携を模索している。また、同社では横浜市や川崎市とも連携協議を進めており、政府との連携も模索している段階だ。

世界市場への挑戦

CC0 Public Domain image by Gerd Altmann

同社はプレシードラウンドを完了したばかりだが、本年中に、シードラウンドの調達を進める計画だ。綿貫氏は、日本の量子コンピュータ分野の遅れについて、「資金の少なさ」が大きな理由の一つだと分析している。

量子コンピュータのハードウェアスタートアップは、SaaSなどのソフトウェア系スタートアップと比べると、全く桁が違う資金が必要なんです。欧米の先行する量子ハードウェアスタートアップでは、創業初期でも数百万ドルから一千万ドルを超える規模の資金調達も珍しくはありません。一方、日本では、そういう大きな金額を投資するVCの文化がほとんどありませんでした。だから昨年までは日本でハードウェアのスタートアップは存在しませんでした。

現在でも、日本で開発されて稼働している量子コンピュータは、理研、大阪大学、富士通が一緒になって作った超伝導量子コンピュータぐらいという状況でした。量子コンピュータを作るのには、クリーンルームや加工装置などといった開発製造環境の整備や、構成部材や構成デバイスの調達費用など、かなりの資金が必要になるのです。(綿貫氏)

また、量子コンピュータ事業の最大の課題は人材確保だ。特にイオントラップや、それに近いAMO (原子・分子・光) 物理分野の研究者が日本国内にはまだ少なく、圧倒的に足りないと綿貫氏は指摘した。そのため、同社では海外人材の獲得にも注力している。外国籍の人材が既にチームの約半数を占めており、現在入国手続き中のギリシャ人エンジニアも含まれている。しかし、国際的な人材獲得における最大のハードルが給与水準の高さだ。欧米の給与水準と戦わないと優秀な人材を獲得できないため、この点でも資金力が重要な課題となる。

現在のチーム構成は、リサーチ関連で6名(うち1名は大阪大学講師からの転職、1名はOIST博士課程学生終了後に就職)、ビジネスサイドで4名などを含む、総勢10名の体制だ。同社では「資金調達が決まり次第、猛烈な勢いで採用をしていく(綿貫氏)」方針で、技術開発の加速と並行して組織拡大を進める計画だ。こうした資金・人材の課題に加えて、グローバル展開も重要な戦略課題となっている。 

現在、Qubitcoreはヨーロッパやアジア太平洋地域での事業展開も視野に入れており、各国の研究機関や企業との連携を模索している。特に、量子技術の研究開発が活発な国々との技術交流や共同研究の可能性を検討している段階だ。

量子コンピュータ分野では、AI分野と同様に情報安全保障の観点が重要になりつつある。しかし、日本市場だけでの事業展開には限界があるため、グローバル展開は不可欠だと綿貫氏は指摘する。 

グローバル展開を進める中で、情報安全保障の観点にも配慮している。外国籍メンバーがチームの約半数を占める様な体制のもと、各国の動向を注視しながら、健全で持続可能な事業運営を目指している。

日本政府は量子コンピュータの国産技術に対して安全保障上の戦略をまだ明らかにしていないが、将来の動向について、綿貫氏は注意深く見守っている。

AIと半導体の分野では、日本は国としての取り組みが後手に回った印象があります。生成AIについても本格的に国策として取り組みが進み始めたのは、わずか数年前のことです。

量子コンピュータの分野では、日本はすでに欧米に比べて遅れを取っているのが現状です。だからこそ、AIや半導体分野での教訓を活かした、国としてのより早い戦略的な取り組みが重要だと考えています。対応が遅れて競争力を損なうことがないよう、早期の取り組みを期待したいです。(綿貫氏)

この強い危機感が、Qubitcoreの事業展開のスピード感につながっている。情報安全保障とグローバル展開の両立という複雑で難しい課題に対し、現実的でバランスの取れたアプローチを模索しながら、日本発の量子コンピュータ企業として世界市場での存在感を示していこうとしている。

Qubitcoreが見据えるのは、単なる技術開発を超えて、日本の量子コンピュータ産業全体の底上げだ。新薬開発や新素材・エネルギー材料の設計、気候関連シミュレーションの高精度化、将来的なAIモデル学習の高速・省電力化など、従来型計算機では膨大な資源を要する課題の解決に向けて、実用的な量子コンピュータの実現を目指している。

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