世界初の魚脂肪培養技術、シンガポール発ImpacFatが日本進出——高輪GWにR&D拠点


シンガポールを拠点とするフードテックスタートアップImpacFat(インパクファット)が、日本市場への本格進出を発表した。2025年10月1日、東京・高輪ゲートウェイシティで開催された記者発表会では、東洋製罐グループ、リバネスグループ傘下の144 Ventures、ESCO Aster CEO個人からの戦略的投資、そしてJR東日本との連携による研究開発拠点の設立が明らかにされた。

ImpacFatは、世界で初めて幹細胞技術を用いた培養魚脂肪の開発に成功した企業として知られる。創業者の杉井重紀氏とCEOのMandy Hon氏(共に下の写真の中央)が率いる同社の技術は、魚の脂肪細胞を培養することで、オメガ3脂肪酸を豊富に含む高品質な脂肪を生産するもので、水銀やマイクロプラスチックといった海洋汚染物質を含まず、乱獲や環境負荷の問題を回避できる点が評価されている。今回の日本進出は、アジア太平洋地域でのビジネス展開を加速させる重要な一歩となる。

興味深いのは、日本のパッケージング業界最大手である東洋製罐グループがこの分野での投資を継続している点だ。同社は2020年、シンガポールの細胞培養エビ肉スタートアップShiok Meats(2024年にシンガポールのUmami Bioworksと合併)のシリーズA調達に参加しており、今回のImpacFatへの投資は、細胞性食品分野における同社の戦略的コミットメントを示すセカンドケースと位置づけられる。

研究者が見出した「良い脂肪」のポテンシャル

ImpacFatの皆さん
Photo credit: ImpacFat

杉井氏は、もともと脂肪と幹細胞の研究者だった。彼の研究キャリアは、人や哺乳類の脂肪組織に含まれる幹細胞の医療応用から始まった。脂肪組織には間葉系幹細胞が豊富に含まれており、再生医療や臨床応用への期待が高まっていた分野だ。

しかし、杉井氏は自身の研究の方向性を見直すことにした。医療分野での脂肪幹細胞研究は確かに重要だが、多くの研究者が参入し、競争が激化していた。そんな中、培養肉という新しい分野に出会い、そこに自身の専門性を活かせる可能性を見出した。培養肉の主要成分は筋肉と脂肪だが、当時はまだ筋肉組織の培養に研究の焦点が当たっており、脂肪の部分は相対的に軽視されていた。

我々が始めた頃は、まだまだ脂肪はあまり注目されてこなかったので、むしろその部分だったら何か貢献できるんじゃないかと考えたのが一つのきっかけです。脂肪はよく悪者にされますが、そんなに悪いものではありません。むしろ我々人間に必須の成分を多く含んでいます。

もちろん、過剰に摂取すると良くありませんし、明らかに悪影響のある脂肪も存在します。しかし、非常に重要な役割を果たしている脂肪もあります。その筆頭がオメガ3です。脂肪細胞は、実は生命の維持に必須な重要な役割を担っているのですが、メタボや肥満、糖尿病といった病気によって質が悪くなってしまいます。質の良い脂肪は、我々の生命に必須なのです。(杉井氏)

この「良い脂肪を広めたい」という思いが、杉井氏を細胞性食品における脂肪研究へと導いた。

2022年に創業されたImpacFatは、A*STAR(シンガポール科学技術研究庁)での研究プロジェクトをスピンオフする形で誕生した。プロジェクト自体は2019〜2020年頃にスタートし、杉井氏がA*STARの政府系研究所で研究を行った結果、特許をもとにスピンオフという形でImpacFatを立ち上げた。杉井氏とHon氏が率いる同社は、培養肉業界において見過ごされがちだった「脂肪」という要素に焦点を当て、独自のポジションを確立してきた。

なぜ「魚」の脂肪なのか

Photo credit: ImpacFat

培養脂肪の研究を始めるにあたり、杉井氏は家畜ではなく魚の脂肪に焦点を当てることを決めた。この選択には、栄養学的な理由と技術的な挑戦、そして日本人としてのアイデンティティが関わっている。

哺乳類の脂肪は、これまでの技術の延長線で作ることは可能だが、栄養価の面では必ずしも理想的ではない。一方、魚の脂肪には、人間の健康に不可欠なオメガ3脂肪酸、特にDHA(ドコサヘキサエン酸)とEPA(エイコサペンタエン酸)が豊富に含まれている。培養肉の脂肪部分として、あるいは単独の栄養素材として、魚の脂肪を培養できれば、より健康的な食品開発に貢献できる。日本人として魚の脂肪を広めたいという思いもあったと杉井氏は語る。

しかし、この選択には大きな技術的ハードルがあった。魚の脂肪を培養するための細胞株が存在しなかったのだ。初期の試行錯誤は容易ではなかった。市場で売られている魚を手に入れて細胞を分離しようとしても、分離はできても増殖しないといった問題に直面した。しかし、研究を重ねるうちに、魚の細胞に適した培養条件を見出し、質の良い細胞株の樹立に成功した。

現在、ImpacFatが使用している主要な細胞株は、パンガシウスという白身魚から樹立されたものだ。パンガシウスは東南アジアで人気のあるナマズの一種で、バサという名前でも知られている。シンガポールでも一般的に食べられる魚だ。

パンガシウスという種の細胞株が非常に良い。一番培養しやすいんです。増殖も早く、増える速度も速いですし、増やした後に脂肪細胞に分化させる効率も非常に高いです。(杉井氏)

シンガポールのローカル市場で手に入る魚から研究を始めたことが、結果的に最適な細胞株の発見につながった。パンガシウス以外にも、ImpacFatはニホンウナギやシーバスなど、複数の魚種から細胞株を樹立している。ただし、商業化を考えた場合、スケールアップと大量生産に最も適した細胞株を選択する必要があり、現在はパンガシウス由来の細胞株を主力としている。

ImpacFatの培養魚脂肪は、既存のフィッシュオイルサプリメントと比較して、いくつかの重要な優位性を持っている。

パンガシウス
Photo by Hectonichus via Wikimedia
CC BY-SA 3.0

優位性1:安定性

最も注目すべきは、その安定性だ。DHAやEPAは健康に良いオメガ3脂肪酸だが、大きな弱点がある——それは酸化されやすいことだ。フィッシュオイルには抗酸化剤が添加されていることが多いが、それでも長期保存や温度変化に弱い。ImpacFatの培養脂肪では、これらの成分が細胞の中に含まれているため、酸化を防ぐことができる。細胞膜という天然のカプセルに守られることで、デリケートなオメガ3脂肪酸が安定的に保たれるのだ。

優位性2:吸収効率と脳への到達性

さらに興味深いのは、体内での吸収効率と脳への到達性だ。フィッシュオイルは脳に行きにくいという問題がある。脳には脳血液関門(BBB)という厳格なバリアがあり、特定の形態の脂質でないと通過できない。

DHAやEPAが細胞の中に入っていると、脳関門をより通りやすいと言われています。まだ完全には証明できていませんが、理論的には細胞の中にあるDHA、EPAの方が、吸収効率も良く、脳関門も通りやすいため、脳に届きやすいと考えています。魚を食べた方がフィッシュオイルサプリメントよりも良いと言われるのは、そういう意味があります。そういった点でアドバンテージがあると考えています。(杉井氏)

ImpacFatの培養魚脂肪は、この「魚を食べる」効果を再現できる可能性がある。

優位性3:純粋性と安全性

フィッシュオイル市場には粗悪品も出回っており、水銀やマイクロプラスチックなどの汚染物質が混入している懸念がある。ImpacFatの培養脂肪は、クリーンな環境で生産されるため、魚が生涯で蓄積する可能性のある重金属、マイクロプラスチック、病原体などの汚染物質が混入する余地がない。海洋汚染が深刻化する現代において、これはますます重要な利点となっている。

興味深いのは、白身魚の細胞を使いながら、青魚以上のオメガ3含有量を実現できる点だ。青魚でも一日の推奨摂取量に達しないことが多いが、ImpacFatの製品では10グラム程度摂取すれば一日の推奨量を超えるほどのDHA、EPAを含ませることができる。培養過程で栄養組成を最適化できるのは、培養技術ならではの利点だ。天然の魚では、種や生育環境によってオメガ3含有量が変動するが、培養では一定の高品質を保証できる。

最初の商品はサプリメントと化粧品

写真はイメージです(AI生成による)

多くの細胞性食品スタートアップが代替肉の開発を目指す中、ImpacFatは異なる戦略を採用している。同社が最初に市場投入する製品は、食品ではなく、培養脂肪または幹細胞から抽出した成分を使用したオメガ3サプリメントや化粧品になる可能性が高い。

この戦略には明確な理由がある。化粧品については、すでにコストとスケールの両面でほぼクリアできており、あとは製品化するだけという段階まで来ている。食品としての規制承認を待つ間に、より迅速に市場投入できる製品で収益を確保し、事業を安定させる狙いがある。

化粧品への応用では、脂肪細胞だけでなく、その前段階の幹細胞も利用できる。脂肪幹細胞は、コラーゲンや抗酸化物質など、皮膚に良い影響を与える様々な物質を分泌している。これらを化粧品の原料として活用できるのだ。

実は、人間の脂肪幹細胞は、すでに化粧品原料として使用されている。杉井氏自身も、以前は人の脂肪幹細胞を扱っており、それがシステムの商品に使われているという。しかし、ここに規制上の問題がある。日本や韓国では人由来の原料を化粧品に使用できるが、東南アジアやヨーロッパでは禁止されているのだ。ImpacFatの魚由来幹細胞であれば、これらの地域でも使用が許される。さらに、効能の面でも、魚由来の成分が人の肌により受け入れられやすい可能性があるという。魚の軟骨成分などが、人の肌に良い効果をもたらすことも期待されている。

においの問題も心配ない。通常の条件下では特別なにおいはないことが確認されている。

オメガ3サプリメントについても、ImpacFatの製品は明確な差別化要素を持っている。白身魚の細胞を使いながら、青魚以上のオメガ3含有量を実現できる点だ。培養過程でDHA、EPAを多く含ませることに成功しており、10グラム程度の摂取で一日の推奨量を十分に超えることができる。

このような段階的アプローチにより、ImpacFatは、サプリメントと化粧品で初期の収益を確保しながら、技術を磨き、コストを下げ、最終的には食品グレードの培養魚脂肪を手頃な価格で提供することを目指している。細胞性食品業界では、収益源を多様化する戦略は珍しくないが、ImpacFatの場合、化粧品という比較的参入しやすい市場を選択したことが特徴的だ。

日本進出——東洋製罐、リバネスとの戦略的提携

2025年10月1日、高輪ゲートウェイシティ LiSH で開催された記者会見から。
左から、Amanda Dizon氏(Enterprise Singapore、リージョナルディレクター)、丸幸弘博士(リバネス CEO)、アンブロス・チア氏(144 Ventures ディレクター)、杉井重紀氏(ImpacFat 創業者)、Mandy Hon氏(ImpacFat CEO)、中村琢司氏(東洋製罐グループホールディングス 代表取締役社長)、熊澤康介氏(ESCO Aster Japan、Xiangliang Lin氏の代理として)、天内義也氏(JR東日本 マーケティング本部 まちづくり部門 品川ユニット マネージャー)。
Photo: ImpacFat

今回の日本進出で注目されるのは、日本のパッケージング業界最大手である東洋製罐グループからの戦略的投資だ。食品・飲料業界に深い根を持つ同社が細胞性食品分野への投資を継続していることは、この技術の将来性を示す重要なシグナルだ。

2020年、東洋製罐グループはシンガポールの細胞培養エビ肉スタートアップShiok MeatsのシリーズA調達に参加した。この投資は、同社が細胞性食品のサプライチェーン構築に関心を持っていることを示していた。今回のImpacFatへの投資は、その戦略の継続と深化を意味する。

東洋製罐グループホールディングスの遠山梢氏(事業開発マーケティング部長)は、ImpacFatとの出会いについて、A*STARで働いていた杉井氏との縁が、ジェトロなど複数のエコシステムステークホルダーを通じて広がり、最終的に協業に結びついたと語る。杉井氏とMandy Hon氏は、東洋製罐グループの役員をはじめ、研究所のメンバーとも面会を重ねてきた。

杉井先生とマンディさんは、とても実直な方で、技術研究、そして生活者のニーズに対して真摯に向き合っておられるという印象を第一印象から持っています。弊社の役員も大きな期待を寄せています。難しい新規事業や新規食品の開発でも、東洋製罐グループの研究者や開発者と一緒に乗り越えていっていただけるんじゃないかという期待を持っています。(遠山氏)

東洋製罐グループホールディングス 事業開発マーケティング部長の遠山梢氏
Photo credit: Kozue Toyama

東洋製罐グループの関心は、おそらくサプライチェーンとパッケージング技術の両面にあると推測される。細胞性食品という新しいカテゴリーには、新しいサプライチェーンソリューションが必要となる。温度管理、酸素バリア、賞味期限の延長など、細胞性魚脂肪の特性を最大限に活かすパッケージング技術の開発は、両社にとって相互利益をもたらす協業の基盤となるだろう。

同時に発表されたリバネスグループ傘下の144ベンチャーズからの投資も重要だ。リバネスは、日本のディープテックスタートアップエコシステムにおいて独特の位置を占める企業で、研究者出身の起業家を支援するテックプランターなどのプログラムを展開している。

杉井氏とリバネスCEOの丸幸弘氏との関係は古く、2014年からの知り合いだという。杉井氏が以前に共同創業したバイオテックスタートアップCelligenicsは、リバネスが運営する研究開発型ベンチャー支援プログラム「テックプランター」の第3回バイオテックグランプリで最優秀賞を受賞している。この長年の信頼関係が、今回の投資につながった。

さらに、ESCO AsterのCEO Xiangliang Lin氏からの個人投資も発表された。ESCO Asterは、シンガポールに拠点を置くライフサイエンス機器メーカーで、バイオセーフティキャビネットやCO₂インキュベータなどのラボ機器を製造している企業だ。細胞性食品に必要な設備を提供する立場から、ImpacFatの技術に投資することは戦略的に理にかなっている。同社も高輪ゲートウェイに拠点を設けて研究開発を進める予定だという。これは、ImpacFatの日本拠点がハブとなって、国際的な協業ネットワークが形成されることを示唆している。

高輪ゲートウェイ拠点——JR東日本との連携と日本市場開拓

LiSH (Link Scholars’ Hub)
Photo credit: JR East

ImpacFatの日本拠点は、東京・高輪ゲートウェイシティ内の「LiSH(Link Scholars’ Hub)」に設置された。LiSHは、JR東日本が運営するライフサイエンス特化型のシェアラボ施設だ。この施設にはさまざまなライフサイエンス企業が入居しており、施設のマネジメントはリバネスが担当している。

興味深いのは、ImpacFatと高輪ゲートウェイ、そしてシンガポールとの縁だ。杉井氏と遠山氏が初めて会ったのは、JR東日本がシンガポールで運営しているコワーキングスペース「One&Co.」だったという。高輪ゲートウェイのある品川・田町エリアには、大手製薬企業、研究機関、スタートアップなども集まりつつある。

ImpacFat には当初、ビジネス開発は東京、研究開発はシンガポールという分業体制も選択肢にあったが、日系企業との協業には研究開発も含まれるため、ビジネス開発と研究開発の両方の機能を東京に置くことになったという。シンガポールと日本の距離があると研究を進めにくい面があったが、高輪ゲートウェイで実施すればよりスムーズに進められるだろう。

日本市場での協業パートナー探しも、この拠点から本格化する。日系企業、特に食品関連の企業からは、食の未来という観点で研究したいという興味を持たれているとHon氏は語る。特に、サプリメントと化粧品分野でのパートナーを求めている。日本以外、特にシンガポール国内や韓国などには協業パートナーがいるが、日本ではもう少し増やしたいという。

その理由は明確だ。日本は化粧品でも栄養サプリメントでも、品質管理がしっかりしており、長い歴史がある。そうした企業と組むことによって、より質の高い製品開発ができるのではないかとHon氏は期待している。

シンガポールでは、フードテックの展示会や国際学会が多く開催されるので、いろいろなつながりでお知り合いになる機会が多いんですけれども、サプリメントや化粧品の業界については、まだ十分なネットワークがありません。東京に進出することにで、そういった企業と繋がりを持ちたいと思っています。今回の日本進出を機に本格的な市場開拓を始めたいと考えています。(Hon氏)

現在、ImpacFatの事業展開はアジア太平洋地域が中心だが、広義ではアメリカ市場にも興味を持っているという。今回の日本進出は、ImpacFatにとって単なる市場拡大以上の意味を持つ。それは、アジア太平洋地域における細胞性食品エコシステムの構築における重要な一歩であり、シンガポールの技術と日本の製造・品質管理のノウハウを融合させる試みでもある。

細胞性食品産業は、まだ黎明期にある。しかし、ImpacFatのような企業が、戦略的パートナーシップを構築し、段階的に市場投入を進めることで、この産業の実現可能性を証明しつつある。魚の脂肪という、一見地味に見える分野から始まるイノベーションが、やがて食のサステナビリティ革命の重要なピースとなる日が来るかもしれない。

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