島国のハンデを力に変えろ――中馬和彦氏が語った、AI時代のスタートアップ世界戦略


スタートアップという言葉が使われ始めたのは2000年代に入ってからで、それ以前は革新的な製品やサービスを生み出し、社会の中で際立つ存在となった企業はベンチャーと呼ばれていた。ベンチャーとスタートアップの違いを表す統一された定義はないが、スタートアップはアイデアをもとに投資家を募り、インターネットの情報拡散の力を使って圧倒的な速度で成長を遂げようとする新興企業を表す言葉として頻繁に使われるようになった。

スタートアップの黎明期から四半世紀が経過した今、スタートアップを取り巻く環境で大きな変化が起きている。2025年7月15日、沖縄で開催されたKOZAROCKSの2日目、日本の3大金融グループの一つ、みずほフィナンシャルグループ執行役員CBDOの中馬和彦氏が、オープニングセッションでファイヤーサイドチャットに参加した。モデレータは、Cohh CCOでGrowthstock Pulse編集長の池田将氏が務めた。

中馬氏は今年3月まで、通信大手KDDIで10年間にわたり、大手事業会社各社とスタートアップとの協業を促すプログラム「KDDI ∞ LABO」やコーポレートベンチャーキャピタル(CVC)の責任者を務めるなど、幅広い分野への投資や事業創造を手がけてきた。「日本のオープンイノベーションの祖」とも言える中馬氏が、通信大手から金融大手へ転身を図った背景には何があったのだろうか。

通信から金融へ――転身に込めた思い

中馬和彦氏
Photo credit: KOZAROCKS

中馬氏の金融業界への転身は、単なるキャリアの変更ではない。そこには日本経済全体が抱える構造的課題への強い危機感と、AI時代という歴史的転換点を前にした戦略的な判断があった。KDDI時代に築き上げたオープンイノベーションの仕組みを、より幅広い産業に展開し、日本の産業構造そのものを変革したいという壮大な志が込められている。

パートナー連合という実験

中馬氏がKDDI時代に手がけた「パートナー連合」の取り組みは、日本のオープンイノベーションを語る上で避けて通れない。一般的に企業がスタートアップとの事業共創に取り組む場合、自社の事業とシナジーを生み出す可能性がある分野に限定することが多い。KDDIは通信会社であるから、普通に考えれば通信事業と関係しそうなスタートアップを集めることになるが、実際には多岐にわたるスタートアップが、KDDI ∞ LABOに集まることになった。

KDDI ∞ LABOがスタートしたのが2011年。スマートフォンが出始めてから数年後のこの頃は、皆が『今流行りのアプリ』を探すような時代でした。スマートフォンが普及するにつれ、『なんか面白いゲームとかないかな』と皆が探している中で、そういう起業家を募集したのがKDDI ∞ LABOの始まりです。元々は、KDDIがスタートアップを応援するためにやっていたんです。

しかし始めて3年くらい経ってみて、インターネットビジネスの領域が拡大したことで、不動産や配車のマッチングサービスといったリアル社会と連携したサービスも増えてきたんです。そういったサービスは通信会社にとっては少し遠い存在です。

一方で、大企業の皆さんからは、スタートアップと事業共創したいが、やり方がよくわからないので教えてほしい、という声をよく聞いていました。KDDI以外にも、不動産会社、鉄道会社、テレビ局など他の事業会社にも参加してもらえれば、スタートアップにとって選択肢は広がるじゃないですか。そこで、大企業でスタートアップを応援したい皆さんに入っていただいて、月に一度くらい集まる機会を設けたわけです。(中馬氏)

こうして2014年に始まった国内大企業のパートナー連合は10年を経て、2024年7月には参画社数が100社に達した。2023年度のパートナー連合によるスタートアップの事業支援件数は年間約1000件に及んでおり、現在では日本におけるオープンイノベーションの一大ハブになっている。

産業構造変革への挑戦

しかし、中馬氏はなぜこのタイミングで銀行業界への転身を決意したのだろうか。その背景には、日本経済全体が抱える構造的な課題への強い問題意識があった。

日本では1990年代初頭のバブル崩壊以降、約30年にわたって経済が長期低迷し、この期間は「失われた30年」と呼ばれている。起業文化が根付かず、スタートアップが育ちにくい土壌が形成されたことで、欧米やアジア諸国に比べて日本は大きく出遅れることとなった。

そうした停滞の時代がようやく幕を閉じ、世界が次なる成長エンジンを模索する中、2022年以降に登場したのが、「ChatGPT」をはじめとする生成AIスタートアップ群である。

日本では、失われた30年って言われ続けてきて、実際にどうやって打開するのかという問題に直面しています。全くの新しいビジネスモデルや技術への投資がなくなっている状況で、AIで既存のサービスの効率化ばかりやり続けていたのでは、果たして日本に輝かしい未来なんて作れるのかなという疑問があるんです。

その点、銀行は、あらゆるビジネスに関わっていて、別に特定の事業をやるわけではないんだけれども、ファイナンスを通じて業界の構造を変えて、新しいモデルを作って、それを応援するということができます。通信業界では、自社の事業領域に関連する投資が中心になってしまうんですが、銀行なら、もっと幅広い産業に関われるんです。

我々はこの立場を生かして、産業構造そのものを変革しようという、すごく壮大な目標を掲げています。これからの10年で、新しい日本の仕組みを作るようなところに、何かコミットしたいんですよ。単なる効率化や既存システムの改善ではなく、根本的な産業構造の変革を通じて、日本の新たな可能性を切り開いていきたいんです。(中馬氏)

AIが変えるスタートアップの常識

中馬和彦氏(右)と、モデレータを務めた池田将氏(左)
Photo credit: KOZAROCKS

2025年上半期、AI分野において劇的な変化が見られた。NVIDIAの時価総額が4兆ドル(約260兆円)に達し、AI分野への投資家の期待がいかに高まっているかが分かる。中馬氏のセッションで最も注目を集めたのは、AIスタートアップの構造的特徴についての見方だった。AIスタートアップはテクノロジーの進歩を超えて、エコシステム全体の前提条件を変えつつある。

計算リソースという新たな壁

従来のインターネット企業は、どんなに成長の速いスタートアップであっても、最初は比較的少ない初期投資で事業を開始し、段階的にスケールアップしていくというモデルが一般的だった。しかし、AI時代においては、この常識が大きく覆されている。

AIスタートアップが直面する第一の特徴は、計算リソースに対する膨大な需要だ。中馬氏によると、AIの開発には高性能なGPUが不可欠であり、創業初期から年間数億円規模の計算リソースへの投資が必要になる。この現実は、スタートアップの資金調達戦略を大幅に変えている。

従来のスタートアップであれば、アイデアとプログラミング技術があれば最小限の投資で事業を開始できた。しかし、AIスタートアップの場合は高性能なGPUクラスターへのアクセスが事業の成否を左右する。特に大規模言語モデルや画像生成AIなどの開発には、数百万ドル規模の計算コストが必要になる場合も珍しくない。

データアクセスの課題

AIスタートアップが直面する第二の特徴は、データアクセスの重要性である。AIアルゴリズムは大量の高品質なデータを学習することで初めて実用的な価値を発揮するが、創業間もないスタートアップが必要なデータを自前で用意することは極めて困難だ。

各業界で蓄積された貴重なデータは既存企業が保有しており、新参のスタートアップがアクセスするのは極めて困難だ。医療では診断支援AIに必要な医療画像データ、金融では取引データ、製造業では生産データなど、いずれもプライバシーや規制の観点から厳重に管理されている。

この現実により、従来の「プロトタイプファースト」アプローチは通用しなくなっている。代わりに創業段階から大企業や自治体とパートナーシップを組み、データの提供を受けながら事業を構築するという新しいモデルが必要になっている。

投資環境の構造的変化

Photo credit: KOZAROCKS

AI時代の到来により、スタートアップの資金調達環境も根本的な変化を迎えている。この変化は、従来のベンチャーキャピタル(VC)を中心とした投資エコシステムの限界を露呈させると同時に、新しい投資モデルの必要性を浮き彫りにしている。

ベンチャーキャピタルの限界

ベンチャーキャピタルは、ファンドの資金を年金基金、事業会社などの機関投資家から調達し、一定期間内に投資回収し収益を上乗せして返還する必要がある。通常、ファンドの償還期間は10年に設定されており、この期間内に投資先企業のエグジット(IPOやM&A)を実現しなければならない。

特にディープテック分野やAI分野では、技術開発から事業化まで10年以上を要する場合が多く、従来のVCモデルとの親和性に限界がある。基礎研究から始まり、プロトタイプの開発、実証実験、規制対応、市場投入まで、長期間を要するプロジェクトは一般的なVCファンドの投資対象として適さない場合が多い。

事業会社投資の台頭

一方で、事業会社による投資はより柔軟で長期的な視点を持つことができる。事業会社は自己資金での投資であるため、外部投資家への償還義務がない。このため、長期的な視点での投資判断が可能となり、技術開発に時間を要するスタートアップへの投資にも対応できる。

さらに重要なのは、事業会社が単なる資金提供者ではなく、戦略的パートナーとしての役割を果たすことだ。データの提供、顧客基盤の共有、計算リソースの提供、規制対応の支援など、AIスタートアップにとって決定的に重要な資産を提供できる。

事業会社の多くは、ただ四半期ごとに利益を積み上げることだけを追求しているわけではなく、社是があって、『こういうことを社会にもたらしたいから会社を始めた』みたいな創業の精神があります。結果として、それに合う人たちをどうやって応援するのか、ということをやりやすいから、短期利益を求めず、起業家の長期ビジョンに共感してくれると思うんです。(中馬氏)

スイングバイIPO戦略

中馬氏が長年提唱してきた「スイングバイIPO」戦略は、AI時代においてさらに重要性を増している。宇宙探査機が惑星の重力を利用して加速する「スイングバイ」航法になぞらえて命名されたこの戦略は、スタートアップが大企業のアセットを活用して成長を加速させ、その後にIPOを目指すというアプローチだ。

実際に、中馬氏が関わった事例として、ソラコムELYZAがある。ソラコムは2014年創業、2017年にKDDI子会社となり、2024年3月に東証グロース市場へのIPOを果たし、日本初の「スイングバイIPO」事例となった。ELYZAは2024年にKDDIグループの子会社となり、LLMの開発・社会実装を進めている。

スタートアップが単独で5年間かけて成長する代わりに、大企業のグループに入ることによって、そのアセットを使って、ぐっと成長速度を上げてユニコーンになっていく。グループに入って終わりではなくて、そこからもう一回上場を目指して成長していくということです。

僕は、スタートアップする人のことを『事業家』と呼んでいるんですが、一方で、いわゆる起業家は嫌いなんです。ただ起業して上場したい、お金を儲けたい、それだけの人には全然興味がありません。事業家には、『世の中の課題を解決したい』『僕はこういうことをやりたい』という信念があって、それを実現するためにはより影響力を大きくしないといけません。

真の事業家であれば、社会課題の解決により大きなインパクトを与えるため、最も効率的な手段を選ぶべきで、そのためには手段を選ばず、最短ルートで大きくする方法を模索すべきだと思います。この発想こそが、スイングバイIPO戦略の根幹にある哲学なのです。(中馬氏)

つながる個人、分断される世界

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現代世界は、一見矛盾した二つの現象が同時に進行している。個人レベルでは、インターネットとグローバルプラットフォームの普及により文化的な統合が進んでいる一方で、国家や地域レベルでは政治的・経済的な分断が深刻化している。

文化と政治の乖離

インターネットとグローバルプラットフォームの普及により、コンテンツや商品の国境を超えた流通が当たり前になった。韓国のドラマ「イカゲーム」がNetflixを通じて世界中で話題になり、日本のアニメやVTuberが国境を越えてファンを獲得している現象は、この変化を象徴している。

従来、各国のコンテンツは言語の壁や流通の制約により、ローカル市場に限定されていた。しかし、NetflixやSpotifyなどのグローバルプラットフォームの登場により、優れたコンテンツは瞬時に世界中に配信される時代が到来した。(中馬氏)

一方で、政治的・思想的な分断は深刻化している。米中対立、ロシア・ウクライナ戦争、中東情勢の不安定化など、国際社会は複数のブロックに分裂している。この分断は、経済活動にも大きな影響を与えており、グローバルサプライチェーンの再構築やテクノロジー分野での「デカップリング」が進行している。

プラットフォームでグローバルに展開できるものと、どうしてもグローバルで戦うことができなくて、地域単位でやらなきゃいけないものが出てきました。スタートアップの中には、グローバル戦略を取りたい企業もあれば、地域戦略を重視したい企業もあります。一見矛盾しているように見えますが、どちらも正しいアプローチなので、それぞれの企業が自社の事業特性をちゃんと理解して戦略を選択しないといけません。

エンタテインメントコンテンツやファッションブランドなどは、グローバルプラットフォームを活用して世界全体を市場とすることができるでしょうし、一方で、金融サービスや政府に関連する事業などは、各国の規制や政治的制約により、地域ごとの戦略が必要となる場合が多いでしょう。自社の事業がどちらの性質を持つかを見極め、それに応じた戦略を選択する必要があります。(中馬氏)

日本の文化的適応力とグローカル戦略

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日本という国は、歴史を通じて独特の文化的適応力を発揮してきた。外来文化を積極的に取り入れながらも、それを単なる模倣で終わらせることなく、日本独自の価値として昇華させる能力こそが、AI時代における日本の最大の武器となり得る。

歴史が示すAI応用への道筋

日本は歴史的に、外来文化を積極的に取り入れながら、独自の文化を創造してきた。寿司やラーメンも同様で、特にラーメンは中国起源でありながら、全く違うものとして世界的な商品に発展した。現代でも、日本のイタリア料理がイタリア本国よりも高く評価され、ミシュランの星の数が世界最多である事実は、外来文化を改良し、新たな価値を創造していることの証左と言える。

この歴史的な文化的適応力は、AI時代においても大いに活用できる可能性がある。中馬氏は、グローバルなものを解釈してローカライズし、オリジナル化する能力こそが日本の強みだと分析した。

AIにおいては、グローバルな基盤技術は、すでにもう出来上がってしまっています。OpenAI、Google、Anthropicなど欧米の大手企業が先行してしまっています。そこにこれから日本から参入していくのが難しいのであれば、どういうローカルなものを作れるかという、応用の方に行ったほうがいいんではないかと思います。(中馬氏)

基盤技術では欧米企業に遅れをとっているが、その技術を日本特有の社会課題に適用する応用分野であれば、歴史が証明してきた文化的適応力を活かして独自の価値創造が可能だという考え方だ。高齢化社会への対応、災害対策、おもてなし文化の技術的実装など、日本が直面する課題を解決するAIソリューションの開発において、この能力は大きな武器となる。

沖縄に見る多様性の価値

このイベントの沖縄での開催を受けて、中馬氏は地域の文化的多様性の重要性に言及した。

過疎化や地域の問題、離島の問題などは、典型的なグローバルな技術が生まれてくるシリコンバレーに持っていっても、使いものにはならないじゃないですか。だって、そういうニーズはないわけですから。でも、日本と同じような課題を抱える地域は世界各地にあるんです。そのような地域に、日本から生まれたサービスを持って行って、一緒に仲間を作ればいいじゃないですか。これこそ多分、これがグローカルだと思うんです。(中馬氏)

中馬氏はまた、誰もがGoogleやAmazonを目指す必要はなく、日本で成功してからアメリカで成功するという画一的な定義から脱却する必要があると述べた。最初からアジア市場を意識し、世界での成功の定義を多様化して考えるべきだという提言は、従来のスタートアップエコシステムの問題点を的確に捉えている。

起業家だけではない成功の形

AI時代において求められる人材像も、従来のスタートアップエコシステムが想定していたものとは大きく異なっている。すべての人が起業家になる必要はなく、むしろエコシステム全体を支える多様な専門性を持つ人材の育成こそが重要だ。

東京大学でアントレプレナーシップ講座を担当している中馬氏は、現在の起業家教育の課題についても率直に語った。興味深いことに、6年間教えてきた学生の中からは、実際に投資家から資金調達して事業を展開する起業家は一定数存在するものの大きく事業をグロースできた事例はほとんどないという。一方で、授業を受講しない学生の中からは大きく事業を成長させることに成功する起業家が現れている。彼らに講座に参加しなかった理由を聞くと、「事業に忙しく授業を受ける暇がない」という答えが返ってきたという。

この経験から、中馬氏は起業家教育の目標設定について重要な示唆を得ている。全ての人が起業家になる必要はない。優秀な起業家はチームで事業を行っているため、その起業家を支えるチームメンバーとして、アントレプレナーシップの知識を持ち、グローバルな視点を理解しながら、同時に地域や日本の良さを理解し、独自の価値観を作ることができる人材が必要だと指摘した。

エコシステム変革のメッセージ

セッションの終盤、これまでの議論を総括するように、中馬氏は参加者に向けて力強いメッセージを送った。

世の中が確実に変わる節目があります。今がまさにその時で、これについてはまだ勝者が決まっていないわけですから、どうせダメだとあきらめる必要はありません。むしろ、チャレンジする機会がみんなにあるんです。今までの延長線上ではなく、非連続のチャレンジをしてみるということを、みんなでやりませんか? そうすると、日本の社会が変わってくるんです。(中馬氏)

この言葉には、AI時代という歴史的な転換点において、従来の延長線上の改善ではなく、根本的な変革を伴う挑戦が必要だという強い信念が込められている。特に、AI時代においては既存の勝者がまだ決まっていない新しい領域での挑戦の可能性がある。

中馬氏の提言は、AI時代における日本発グローバル企業の創出に向けた重要な指針を提供している。スタートアップを支援する方法を模索し続けてきた彼にとって、金融業界は新たな実験場である。実験の舞台は変わったが、より良いエコシステムを作りたいという探究心は変わらない。

AI時代という大きな転換点に立つ今、中馬氏のメッセージは日本のスタートアップエコシステム全体に響いている。従来の「小さく始めて徐々に拡大」というモデルから、「最初から大きく、パートナーシップありき」というモデルへの転換。ベンチャーキャピタル中心の投資環境から、事業会社による戦略的投資の重要性の高まり。そして、グローバル一極集中から、グローカル戦略への転換。

在日米軍・嘉手納基地に隣接する街、日本とアメリカの文化が混じり合うコザで語られたこのセッションは、まさに日本のスタートアップシーンの新たな可能性への扉を開く議論だった。セッションを締めくくる拍手からは、中馬氏の提言に対する参加者の期待と共感が伝わってきた。AI時代における日本の逆転戦略は、今まさに動き始めている。

Photo credit: KOZAROCKS

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