
日本のディープテック・エコシステムにおいて、異彩を放つ起業支援プログラムがある。東京大学協創プラットフォーム開発(東大IPC)が運営する「1stRound」は、国内最大規模を誇る大学・研究機関などアカデミア共催の起業支援プログラムとして、これまでに累計102チームを採択し、資金調達成功率約90%、大型助成金の採択率50%という驚異的な実績を誇る。
何がこのプログラムをここまで成功に導いているのか。その秘密は、「スタートアップにとってメリットしかない」と断言する1stRoundディレクター、長坂英樹氏の独特な支援哲学にある。「フリクションレス」——あらゆる摩擦を取り除くことで、日本のディープテック支援の常識を覆し、さらには起業文化そのものを変革しようとしている。
UC Berkeley(カリフォルニア大学バークレー校)での学び、デロイトトーマツコンサルティング時代の挫折、自身の起業体験を経て辿り着いた「フリクション除去」の思想とは何か。そして、長坂氏が描く日本のイノベーション・エコシステムの未来とは。5年間の実践を通じて見えてきた課題と、次なる挑戦への想いを聞いた。
起業家の父とシリコンバレーでの学び

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長坂氏の起業家精神の原点は、意外にも父の存在にある。「実は私の父が、日本でも初期のベンチャー起業家でした」と振り返る長坂氏。長坂氏の父が手がけたのは、当時のディープテックそのものの事業だった。1980年代、父はアメリカのCalTech(カリフォルニア工科大学)の研究者と組んで、潜水艦の位置を海上から高速で計算するアルゴリズムを開発していた。
当時はディープテックそのもので、そのアルゴリズムがどんな価値を見出すかというナラティブの話でもありました。父はその技術をアメリカで立ち上げたんですが、当時はエクイティの取り分をどうするかなどを気にせず、ただ、日本での事業権を譲り受けたいだけと申し出たのです。(長坂氏)
潜水艦の位置計算のアルゴリズムが、テレビの録画システムの8桁数字生成に応用されたのは、いかにも軍事技術の民生転用が盛んなアメリカらしい。当時は録画予約システムがなかったため、ユーザーは放送の時間に録画ボタンを押さなければなかった。そこで「何時何分何曜日」という複雑な情報を8桁の数字に圧縮して簡単に録画予約できるシステムを実現した。
「Gコード」を席巻させたジェムスタージャパンの誕生だ。技術の社会実装という概念が希薄だった時代、長坂氏の父はメディア各社に営業し、メーカーと調整を重ね、最終的に日本市場を制覇することに成功した。デジタル放送やEPG(電子番組表)が普及したことで、Gコードにふれる機会は少なくなったが、技術が思わぬ形で事業化した好例と言えるだろう。
自分の存在意義を社会に投影していく、本当に自分がやりたいことを自分のコントロールで実行する、そのかっこよさに僕はずっと憧れていました。(長坂氏)
父の背中を見て育ったことが、長坂氏の起業家マインドの源流となっている。大学卒業後、長坂氏はシリコンバレーの中心にあるUC Berkeleyに留学した。2010年当時は、2000年のドットコムバブル崩壊から10年が経ち、新たなイノベーションの波が到来していた時期だった。
隣に座っている学生がアドビに買収されるようなベンチャーを起業するような環境でした。「技術をこれほど迅速に社会実装できるのか」という体験を目の当たりにしました。(長坂氏)
時はSaaS全盛、「データを制する者がビジネスを制する」時代になり、統計学がIT業界で最も価値の高いスキルの一つになった。振り返ってみれば、現在の生成AIブームの素地はこの頃作られたのだ。
技術の社会実装の最前線を目の当たりにした長坂氏だったが、語学の壁や文化の違いもあり、最終的には日本に帰国することを選択した。しかし、この選択が回り道に見えたとしても、後に長坂氏が日本のディープテック・エコシステム構築に携わる上で、貴重な経験となったのは間違いない。シリコンバレーで見た技術と資本の融合、そして何より「技術を迅速に社会実装する文化」への憧憬は、その後の長坂氏のキャリアを決定づけることになる。
帰国後、長坂氏はデロイトトーマツコンサルティングに入社し、ベンチャーサポート部門で大手自動車OEMの新規事業やオープンイノベーションを支援することになった。シリコンバレーで体験した技術の社会実装を、今度は日本の大手企業とスタートアップの文脈で実践しようと考えたのだ。しかし、ここで根本的な矛盾に直面する。
スタートアップ支援は、僕にとってはほぼ留学のようなものだと思いました。留学を経験したことのない人が、いくら知識を持っていても心から語ることはできないし、実際に経験したからこそ分かることがある。同じように、スタートアップ支援というのは、自分でスタートアップを立ち上げて経営した経験がないと、本当の意味での支援はできないということです。(長坂氏)
そんな確信から、長坂氏は後に、自らもIoT系スタートアップ(非GPS環境下におけるドローン制御ソリューションサービス)の創業に関わることになる。技術特許取得、海外人材採用、販路拡大など、スタートアップ経営の全側面を経験し、最終的にはアクセラレータからの資金調達まで実現した。しかし、起業家としての学びを深める中で、自身の強みがエコシステム全体の底上げにあることを認識し、事業を共同創業者に託して、スタートアップ支援の道に転向することを決意した。
4つの経験から生まれた「フリクションレス」な支援

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2020年、長坂氏は東大IPCに参画した。自身の経験を4つの視点に整理し、それらを統合した新しい支援モデルの構築に着手した。
私のキャリアを振り返ると、4つの重要な経験があります。シリコンバレーでの技術の社会実装、日本企業のオープンイノベーション支援、ディープテックスタートアップの起業・経営、そして大学系VCとしての経験です。この4つの視点を組み合わせて生み出したのが、1stRoundというプログラムなのです。(長坂氏)
1stRoundの最大の特徴は「ノンエクイティ」——株式を取得せずに最大1000万円の支援を行うことだ。アメリカ・スタンフォード大学のStartX(スタンフォード大学関係者限定のアクセラレータプログラムで、ノンエクイティでの起業支援を実施)をベンチマークに設計されたこのモデルには、深い哲学がある。
千件のうち成功するのは3件程度。成功確率も成功の度合いも予測できない中で、コストだけがかさんでいく。そのため多くの資金調達をしようとすれば、最初から多額のエクイティを発行せざるを得なくなり、これではうまく機能しない。ここに、日本特有の構造的な課題があることに気づいたのです。
日本でイノベーションが生まれない根本原因は、情報の非対称性にあると考えています。一方に解決すべき課題があり、他方にその解決策となる技術がある。ところが、課題を抱える側は自分たちの問題を明確に認識できておらず、技術を持つ側も自分たちの技術がどんな課題を解決できるのかを理解していない。さらに、お互いの存在を知らないため、本来なら結びつくべき課題と解決策が出会うことがないのです。(長坂氏)
この構造的課題を解決するため、1stRoundではユニークなビジネスモデルを構築した。大手企業から支援の対価を受け取り、その資金をすべてスタートアップ支援に投入する仕組みだ。
大手企業は大学が持つ技術が欲しいが、大学の研究情報にアクセスできていない。大学は技術を社会実装につなげたいが教育機関・研究機関として民間企業支援の論理が通らない。それらに対するあらゆる摩擦を取り除くことが長坂氏の支援の本質となっている。
東大IPCはVCファンドを運営する一方、日本のアカデミア界を牽引する東京大学の子会社という公共性を持つからこそできる仕組みとして、フェアな立場でのハブ機能を確立することに成功した。このノンエクイティという仕組みは、スタートアップや起業しようとする人たちに非常に良いインセンティブを提供している。
世界展開

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現在、1stRoundは国内外で急速に規模を拡大している。参画アカデミア数は21大学・4研究機関に達し、JAXA(宇宙航空研究開発機構)や理化学研究所といった国立研究機関の参加により、宇宙技術や基礎科学分野のスタートアップ支援も強化された。
コーポレートパートナーも着実に増加している。最新の情報では、味の素、ENEOS Xplora、関西電力、九州電力、サニックスなど、食品、エネルギー、電力、ガス、環境関連企業が新たに参画。既存のJR東日本スタートアップ、三井住友海上火災保険、三井不動産、三菱重工業、三菱地所、三菱商事、ダイキン工業、ホンダ・イノベーションズ、日立建機、阪急阪神ホールディングスなどと合わせて、総勢24社の日本の産業界を代表する企業群がコーポレートパートナーとして参加している。
プログラムの実績も際立っている。過去9年で累計102チームを採択し、支援後の資金調達成功率は約90%、大型助成金の採択率は50%以上を達成している。特に注目すべきは、過去3年ほどは各回半数を超えるチームが3桁万円以上の規模でコーポレートパートナーとの協業に至っている点だ。これはスタートアップにとって単なる資金提供にとどまらず、実際のビジネス機会創出に結びついていることを示している。
長坂氏の野望はさらに大きい。海外展開にも着手し、アメリカのMassChallenge、ドイツのCyber Valleyとの連携を進めている。特に注目すべきは、「お互いが同額をコミット」するという新しい国際協力モデルの構築だ。
これは、1stRoundが海外のスタートアップに資金提供する際、相手方の海外アクセラレーターも同額を日本のスタートアップに提供するという相互支援の枠組みを指す。単にお金を払って海外プログラムに参加するのではなく、対等な関係性を築くことで、より深いコミットメントと継続的な協力関係を実現している。
アメリカ・ドイツ・日本は、GDP、R&D投資額、研究者数のいずれにおいてもトップクラスです。この3か国の連携によって何が起こるかというと、スタートアップにとってはすべての拠点でノンエクイティ(株式を取られることなく)支援を受けながらスムーズに事業展開できる環境が生まれます。これほど条件の良いプログラムがあれば、スタートアップは必ずそちらを選ぶでしょう。世界最高のディープテック支援プログラムが完成するのです。(長坂氏)
1stRoundの支援手法も従来のアクセラレーターとは一線を画している。プログラムに採択されている時点で、起業家には一定のスキルとポテンシャルが備わっているという前提に立ち、座学のようなレクチャーは実施せず、押し付けるメンタリングも行わない。提供するのは、資金と、徹底的なヒヤリングを基にしたステークホルダーとのコミュニケーション・事業成長伴走、そして東大IPCの信用を使った大手企業との橋渡しなど実務支援が中心だ。
僕らがメンタリングの代わりに実施するのは、月1回1時間程度、前月に出した宿題の進捗と次の1カ月の課題設定を確認し、プログラム期間全体で、採択者から対面・オンラインでいただく面談時間は6カ月で合計6時間、それで十分です。
400件を超える応募の中から選ばれたチームですから、やるべきことも分かっているし、優秀なチームも揃っている。何よりも大切なのは、皆さんの貴重な時間を無駄にしないことです。
このプログラムを通じて、自ら最速で成長するために必要な要素を確実に得ていただきたいと考えています。だからこそ、単なるメンタリングではなく、実務リソース提供と実践の機会、そして伴走こそが重要だと考えています。(長坂氏)
こうしたアプローチの背景には、1stRoundでの支援を経て当該スタートアップがVCから資金調達をする上での予行演習という意図がある。また、1stRoundに採択されたスタートアップは、プログラム支援期間後も、東大IPCのコミュニティメンバーとして他の採択スタートアップと永続的かつ相互にアドバイスを求めることが可能な相互扶助の仕組みを構築している。
次なる理想の実現へ

Photo credit: Cyber Valley
長坂氏が1stRoundを牽引し始めてから5年間の取り組みを経て、長坂氏の理想も進化している。当初想定していた機能はほぼ実現することとなったが、ここからさらに、文化を変えていきたいという。
初期のディープテックチームへの参画や採用活動は、とてつもなく大変です。関係者も少ないし、海外での採用も、最初の採用プロセスが非常に困難。丁寧なPRやコミュニケーション、この技術が何に使えるのかをしっかりと説明しなければならないし、なかなか人が集まってこない。
また、日本市場は今後、少子高齢化で小さくなっていく。縮小する市場のニッチな領域を狙っていては、ディープテック企業が大きな成功を収めることができるでしょうか。ほぼ無理な話なので、世界に出なければいけない。最初から海外展開が運命づけられているはずなのに、まずは最初の顧客をどうしようかというところで止まってしまっています。(長坂氏)
この課題の解決策として、長坂氏が着目するのは、PayPalマフィアやPalantirマフィアといった言葉で表現されるコミュニティの存在だ。PayPalマフィアは、決済分野の規制対応や詐欺対策といった困難な創業期を共に乗り越えた結束力により、元従業員同士が相互に投資・協力する強固なネットワークを形成した。同様に、Palantirマフィアも戦地や困難な現場での実戦経験を共有し、互いを支援し合うコミュニティとして機能している。日本にはまだ、海外にも当たり前に進出できる起業家が集まり、正しい刺激を与え合うことができるコミュニティが不足している。
長坂氏には、UC Berkeleyで体験した「健全な新陳代謝」と「正しいジェラシー(嫉妬心)」の文化を日本にも根付かせたいという想いがある。起業の文脈においては、ジェラシーとは他者の成功を見て「自分も負けていられない」と奮起する建設的な競争心、健全な競争心を指し、仲間同士が互いに刺激し合う環境を生み出す。
UC Berkeleyで、大手銀行出身のような堅実な人が、2〜3年のMBAプログラムを通じて劇的に変わるのを見ました。最初は「英語を話せるかどうかわからない、大丈夫でしょうか」と言っていた人が、周囲の起業家精神に感化され、2〜3年後には逆にこちらが「なぜ君は起業していないんだ」と言われるようになる。環境が人を変えるんだと本当に痛感しました。
文化は変えるのではなく作るものです。人が集まれば、それが一つの文化になっていく。変えることは不可能だと思います。既存の文化があるのは、そこが一番気持ちよく心地よいからです。意識が変わった人は、そこから抜け出して新しい場所に行き、全く新しいものを作り出すところに入って、そこで感化されていきます。
エコシステムを変えるのは、仕組みではなく、1件の大成功だと思っています。その1件の大成功を作れば、そこから間接的に良い流れが生まれてきます。(長坂氏)
この状況を打破するため、長坂氏は「勝つために必要な要素」を明確に定義している。技術、海外展開、良いコミュニティ、それを引っ張るリーダーシップ——これらを着実に実現していくしかない。
日本のディープテック・エコシステムの変革は、決して一朝一夕には実現しない。しかし、長坂氏の「フリクションレスな支援哲学」と「文化を作る」という挑戦は、確実に新しい潮流を生み出している。国内25のアカデミア、そして世界へと広がる1stRoundの取り組みは、日本のイノベーション・エコシステムの新たな可能性を切り開きつつある。